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ぜんぷくじあと|天台宗御堂山

全福寺跡の編集履歴
2024年02月12日(月)
愛知県 三河大塚駅

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okazakirider
2024年02月12日 23時10分

ご由緒

蒲郡市教育委員会の案内板によると、
全福寺は宝国山記(萩の竜源寺七世鶴芳宿老師が書いた宝国山養円寺の縁起書)によれば聖武帝の神亀生中(七二四~七ニ八年)行基が十一面観音(県指定)を刻みこれを祀ったのが全福寺の起源である。
その後三河の守護安遠藤九郎盛長に命じて堂塔を建立させ、三河七御堂の一つとして栄えた。
天台宗に属し十二僧院を備えた台密の修業道場であった。文明二年(一四七十年)牧野氏が萩原芳信(丹野城主)討伐の軍をおこし、この乱によって全福寺も荒廃した。
現在「相楽山荘」前の平地(一八〇〇平方メートル)に本堂跡とおもわれる十数個の礎石がありさらに東南二六メートルほどはなれた地点にも十数個の礎石が現在しており、かなり大規模な寺院で あったと推定される。
市内には礎石がはっきりと現在する寺院跡は他にはなく大へん貴重なものである

編集前:蒲郡市教育委員会の案内板によると、
全福寺は宝国山記(萩の竜源寺七世鶴芳宿老師が書いた宝国山養円寺の縁起書)によれば聖武帝の神亀生中(七二四~七ニ八年)行基が十一面観音(県指定)を刻みこれを祀ったのが全福寺の起源である。
その後三河の守護安遠藤九郎盛長に命じて堂塔を建立させ、三河七御堂の一つとして栄えた。
天台宗に属し十二僧院を備えた台密の修業道場であった。文明二年(一四七十年)牧野氏が萩原芳信(丹野城主)討伐の軍をおこし、この乱によって全福寺も荒廃した。
現在「相楽山荘」前の平地(一八〇〇平方メーイトル)に本堂跡とおもわれる十数個の礎石がありさらに東南二六メーイトルほどはなれた地点にも十数個の礎石が現在しており、かなり大規模な寺院で あったと推定される。
市内には礎石がはっきりと現在する寺院跡は他にはなく大へん貴重なものである

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