ぜんぷくじあと|天台宗|御堂山
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全福寺跡の編集履歴
2024年02月12日 23時10分
緯度
34.82984888642255
編集前:34.830993950684565
経度
137.27442042781348
編集前:137.27651289725344
名前
全福寺跡
編集前:廃寺・全福寺
ふりがな
ぜんぷくじあと
編集前:はいじ・ぜんぷくじ
住所
蒲郡市相楽町荒井
編集前:蒲郡市相楽町
ご由緒
蒲郡市教育委員会の案内板によると、
全福寺は宝国山記(萩の竜源寺七世鶴芳宿老師が書いた宝国山養円寺の縁起書)によれば聖武帝の神亀生中(七二四~七ニ八年)行基が十一面観音(県指定)を刻みこれを祀ったのが全福寺の起源である。
その後三河の守護安遠藤九郎盛長に命じて堂塔を建立させ、三河七御堂の一つとして栄えた。
天台宗に属し十二僧院を備えた台密の修業道場であった。文明二年(一四七十年)牧野氏が萩原芳信(丹野城主)討伐の軍をおこし、この乱によって全福寺も荒廃した。
現在「相楽山荘」前の平地(一八〇〇平方メーイトル)に本堂跡とおもわれる十数個の礎石がありさらに東南二六メーイトルほどはなれた地点にも十数個の礎石が現在しており、かなり大規模な寺院で あったと推定される。
市内には礎石がはっきりと現在する寺院跡は他にはなく大へん貴重なものである
編集前:御堂山観音堂が近辺が、旧の全福寺の跡の様です。
観音堂やさがらの森あたりまで跨っていた様です。
駐車場
あり さがらの森の駐車場
創立
神亀年中(724〜728)
編集前:神亀年中
創始者/開山・開基
行基
編集前:行基?
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