御朱印・神社お寺の検索サイト

楽しみ方

編集詳細

2025年02月15日(土) 03時33分 byシンくん

履歴一覧へ戻る
ご由緒
編集前
寒巖禅師は七百余年前の交通不便の時代にもかかわらず、「時世を救う」の大信念を貫いて二度までも宋国(中国)へ渡られました。その二度目の入宋よりの御帰朝に際し、いよいよ船に乗って海上に出られた時、たちまち霊神が空中に姿を現されました。
見目麗しきその霊神は稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨って声高らかに真言を唱えながら現れます。「われはこれなり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」この出来事に深く感激された寒巖禅師は帰国後自ら霊神の形像を刻まれ、護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の真言を唱念し、御祈祷するように訓えられました。
その後六代目のお弟子・東海義易禅師がここ豊川の地に妙嚴寺御開創の折、御本尊に寒巖禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巖禅師御自作の吒枳尼真天像を山門の鎮守としてお祀りになりました。嘉吉元(1441)年旧暦11月22日のことです。その霊験は顕著で、今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等歴代著名人をはじめ広く一般信者の帰依信仰を集めて参りました。
時は明治に至って神仏分離が発令され、廃仏毀釈の暴勢に乗じて一時は當山もその厄に遇うこと必至と思われましたが、幸い第二十八世霊龍禅師およびそのお弟子第二十九世黙童禅師の善処によって寒巖禅師の勝躅を護持し、豊川吒枳尼真天の霊験をいよいよ顕彰せられましたことは特筆すべきことです。以後、豊川吒枳尼真天は「尊天様」の愛称で親しまれ、その信仰は日本国内はもとより遠く海外からも大勢の参拝祈願者を迎え、現在に至っています。
編集後
寒巖禅師は七百余年前の交通不便の時代にもかかわらず、「時世を救う」の大信念を貫いて二度までも宋国(中国)へ渡られました。その二度目の入宋よりの御帰朝に際し、いよいよ船に乗って海上に出られた時、たちまち霊神が空中に姿を現されました。
見目麗しきその霊神は稲束を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨って声高らかに真言を唱えながら現れます。「われはこれなり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快楽ならしめん、必ず疑うこと勿れ」この出来事に深く感激された寒巖禅師は帰国後自ら霊神の形像を刻まれ、護法の善神としてお祀りになり、常にお弟子に彼の真言を唱念し、御祈祷するように訓えられました。
その後六代目のお弟子・東海義易禅師がここ豊川の地に妙嚴寺御開創の折、御本尊に寒巖禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巖禅師御自作の吒枳尼真天像を山門の鎮守としてお祀りになりました。嘉吉元(1441)年旧暦11月22日のことです。その霊験は顕著で、今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等歴代著名人をはじめ広く一般信者の帰依信仰を集めて参りました。
時は明治に至って神仏分離が発令され、廃仏毀釈の暴勢に乗じて一時は當山もその厄に遇うこと必至と思われましたが、幸い第二十八世霊龍禅師およびそのお弟子第二十九世黙童禅師の善処によって寒巖禅師の勝躅を護持し、豊川吒枳尼真天の霊験をいよいよ顕彰せられましたことは特筆すべきことです。以後、豊川吒枳尼真天は「尊天様」の愛称で親しまれ、その信仰は日本国内はもとより遠く海外からも大勢の参拝祈願者を迎え、現在に至っています。
見所
編集前
豊川稲荷として知られている。
妙厳寺の本尊は千手観音である。豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる吒枳尼天(だきにてん)のことである。
庭が美しいです。
会社経営者、商売をされている方は、ほとんどの方が足を運ぶ所です。
編集後
豊川稲荷として知られている。
妙厳寺の本尊は千手観音である。豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる吒枳尼天(だきにてん)のことである。
庭が美しいです。
会社経営者、商売をされている方は、ほとんどの方が足を運ぶ所です。
参拝所要時間
編集後
約45分〜
参拝料
編集後
基本は無し 特別拝観等は有料
巡礼
編集前
東海三十六不動尊霊場 第17番
編集後
東海三十六不動尊霊場第17番札所
東海百観音結願札所
三河新四国八十八ケ所霊場番外札所
豊鳳沿線開運大師霊場第1番札所