本社はもともと安賀部(赤部)山神と称し、安蘇郡の北隅、安蘇川の水源なる氷室山に鎮座していた。
宇多天皇の御代 仁和元年(885)秋山村開闢の時に勧請されたと云う。
対馬守は、領地内の赤部山神へ火難退除を祈願し精神を静めて三度拝伏すると、たちまち大火は鎭まり宗家の屋敷と近所の家は無事であった。 対馬守は安蘇の方向を向いて感謝の遥拝をし、家来を氷室山
本社はもともと安賀部(赤部)山神と称し、安蘇郡の北隅、安蘇川の水源なる氷室山に鎮座していた。
宇多天皇の御代 仁和元年(885)秋山村開闢の時に勧請されたと云う。
弘化四年十二月十七日、正一位氷室山神を賜る。
明治四十五年、氷室山神社が深山の山頂で参拝困難のため、里に近い「梅の木の鹿島神社」のあった場所に奥宮と里宮が建てられた。
【安蘇の赤部天狗】
下野・上野国境の山々には、五色兵士とも云われる「五色天狗」が住むという。
永野尾出山の黄兵衛天狗、飛駒根本山の黒平天狗、上州澤入り黒ざかし塞蟲山の青平天狗、作原白岩山の白平天狗、そして秋山氷室山の赤兵衛天狗である。
天保五年(1834)江戸に大火あり、当時の秋山村領主であった宗対馬守の屋敷も火に包まれそうになった。 その時、逃げまどう人々を押し分けるように、背の高さが一丈(約3m)もある、籠のようなものを背負った大男が門前に現れた。炎に照らされて顔も手足も真っ赤で。眼は爛々と輝き、鼻がとても高く突き出ていた。
大男は、悠々と門の扉を外し、大団扇のように炎に向かって扇ぎはじめた。すると不思議なことに炎がだんだんと静まってきた。
それを見て、呆然としていた屋敷の武士や近所の住人も必死になって防火につとめたので、宗家屋敷と近所の家々は無事であった。
対馬守は、大男のめざましい働きぶりに感動し「お前の名は何というのか」と大声でたずねた。
すると大男は「おれか、おれはアソのアカベよ」と言ったかと思うとそのままどこともなく立ち去ってしまった。
対馬守は家来と一緒に考えた末、アソとは自分の領地である下野国の安蘇に違いないと考え、家来をやって調べさせたが、安蘇郡のどこにもそんな大男は住んでいないし見たこともないという。
最後に領民から「氷室の天狗様ではないか」という情報を得て調べたところ、安蘇の奥地、氷室の頂上に赤部天狗様を祀った神社が見つけることができた。
【氷室ばあさん】
むかし、奥氷室の氷室山神社に一人の老婆が住み神社を守っていた。
この老婆は大変な風呂好きで、雨の日も風の日も一日も欠かさず、大荷場のある家に風呂をもらいにきていた。 片道十キロ余りある、険しいうえに暗い山道を提灯も持たず、その上、いつも一本歯の高下駄を履いて通ってくるのである。
村の評判となったが、この老婆がいつ、どこから来たのかはおろか名前さえも解らず、村人は「氷室ばあさん」と呼んでいた。
物好きな若い衆が集まって「婆さんの後を着けて正体を見とどけてやろう」ということになり、ある晩、選ばれた若者の何人かが、老婆に気づかれぬように暗い山道を帰っていく後をを着けていった。
ところが婆さんの歩くことの速いこと速いこと。一本歯の高下駄を履いた老婆に、藁草履を履いた元気な若者がとても追い着けず、いつも村外れで見失ってしまうのである。
あの婆さんはただ者ではない、狐か狸か、いや神様じゃ、それとも天狗様だと、村中この話で持ち切りとなった。
そんな噂などどこ吹く風で、婆さんはあいかわらず毎晩風呂をもらいにやって来た。ある晩、風呂の主人が「お婆さんや、遠い山道をよく来なさるが、真っ暗なのに怖かないかね」と恐る恐る聞いてみた。
「いやいや、わしには氷室山の天狗様がついてなさるで、途中まで帰るといつもお迎えに来てくださるんで提灯も何もいらんのさ。奥氷室なんてほんの一時だよ」何気ない風に笑うばかり。
主人は恐れをなしたが、別に何の迷惑を掛けるでもないこの老婆を、それからもずっと気持ちよく風呂に入れてやったという。
奥氷室の神殿跡の南西には、氷室ばあさんの墓標があり「いざなぎのいきのみこと」と刻まれているという。