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やはたうすのみねぐう

八幡磨能峰宮
山口県 美祢駅

パーキング
駐車場
あり

あり(敷地内に駐車できます)

御朱印について御朱印
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ありません

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神祇伯
神祇伯
2023年09月22日(金) 19時07分46秒
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山口県美祢市で見つけた神社。北に500mのところにある上領八幡宮と対になり下領八幡宮とも呼ばれています。
かつては当社に天照大御神さまを祀る宇周宮があり、八幡信仰の広がりと共に八幡神さまが勧請されますが、明治期に現社名になりました。八幡宮を名乗ってはいましたが、やはり最初からこの地の産土神だった宇周宮を復興しようという考えからだそうです。

八幡磨能峰宮(山口県)

《鳥居と看板》

八幡磨能峰宮(山口県)

《社格碑》
美祢市では唯一の県社だったそうです。つまりはこの地域で一番社格が高かったということですね。

八幡磨能峰宮(山口県)

《廣岡浪秀の顕彰碑》
👁チェックポイント‼️
こちらの廣岡浪秀という方は、幕末に長州藩の攘夷志士として活動していた当社の神主家の人間で、有名な池田屋事件で命を落としました。
しかしこの方がこの美祢市(かつては大嶺)で行った攘夷活動は反響が大きく、後世に従五位に叙されています。当社が美祢市で一番高い県社に列格したのも浪秀さんの功績によるものらしく、現在は5年ごとに式年祭が行われています。

八幡磨能峰宮(山口県)

《表参道》
この両側の楠のところに奥の鳥居があったそうですが、大きくなりすぎて接触するようになったので動かしたそうです。

八幡磨能峰宮(山口県)

《手水舎》
使えませんでした。

八幡磨能峰宮(山口県)

《拝殿》
かつて八幡宮だったのもあって伽藍を兼ねた建築様式となってます。

八幡磨能峰宮(山口県)

《扁額》🙏

八幡磨能峰宮(山口県)

《絵馬掛け》

八幡磨能峰宮(山口県)

《猿田彦神像》
一般的に知られる猿田彦神さまと比べると鼻が短いのでピンと来ませんでしたが、神主さんから回答いただきました。
ネットで他の参拝者が書いてましたが、私も役小角さんだと真っ先に思ってました。

八幡磨能峰宮のその他建物

《社務所》
御朱印戴こうと伺ったら神主さんがおり、ついでに神社について色々と教えてくださいました。神社だけでなく美祢市のことも知ってらっしゃるので、いらっしゃったら是非色々尋ねてみてください。

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写真

八幡磨能峰宮(山口県)
美祢市天然記念物の社叢
八幡磨能峰宮(山口県)
御朱印
八幡磨能峰宮(山口県)
拝殿
八幡磨能峰宮(山口県)
八幡磨能峰宮のその他建物
《社務所》 御朱印戴こうと伺ったら神主さんがおり、ついでに神社について色々と教えてくださいました。神社だけでなく美祢市のことも知ってらっしゃるので、いらっしゃったら是非色々尋ねてみてください。
八幡磨能峰宮(山口県)
《猿田彦神像》 一般的に知られる猿田彦神さまと比べると鼻が短いのでピンと来ませんでしたが、神主さんから回答いただきました。 ネットで他の参拝者が書いてましたが、私も役小角さんだと真っ先に思ってました。
八幡磨能峰宮(山口県)
《絵馬掛け》
八幡磨能峰宮(山口県)
《扁額》🙏
八幡磨能峰宮(山口県)
《拝殿》 かつて八幡宮だったのもあって伽藍を兼ねた建築様式となってます。
八幡磨能峰宮(山口県)
《手水舎》 使えませんでした。
八幡磨能峰宮(山口県)
《表参道》 この両側の楠のところに奥の鳥居があったそうですが、大きくなりすぎて接触するようになったので動かしたそうです。
八幡磨能峰宮(山口県)
《廣岡浪秀の顕彰碑》 👁チェックポイント‼️ こちらの廣岡浪秀という方は、幕末に長州藩の攘夷志士として活動していた当社の神主家の人間で、有名な池田屋事件で命を落としました。 しかしこの方がこの美祢市(かつては大嶺)で行った攘夷活動は反響が大きく、後世に従五位に叙されています。当社が美祢市で一番高い県社に列格したのも浪秀さんの功績によるものらしく、現在は5年ごとに式年祭が行われています。
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八幡磨能峰宮の基本情報

住所

山口県美祢市大嶺町東分1744番地

行き方
アクセスを詳しく見る
名称

八幡磨能峰宮

読み方

やはたうすのみねぐう

通称

下領八幡宮

参拝時間

参拝自由

参拝にかかる時間

約15分

参拝料

なし

トイレ駐車場にあり
電話番号0837-53-4138
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご祭神《主祭神》
 天照大神
 蛭子大神
《配祀神》
 応神天皇
 神功皇后
 宗像三女神
ご神体

不詳

創建時代

孝霊天皇の御代

創始者

不詳

本殿

切妻造

ご由緒

社伝によると、大和時代の孝霊天皇の御宇に創立し、天照大神・蛭子大神の二神を奉祀し、宇周宮又は磨能峰宮とも称した。其の後天照大神・邇々杵尊・稲田姫命・大国主神・保食神・神武天皇を合祀して稲六所の明神と崇められ、穴門国の総社となったと伝える。平安時代の仁寿元年(八五一)、勅許により位階を進められ従五位下に叙せられ官祭となる。鎌倉時代に山城国の男山八幡宮の分霊を合祀する。南北朝時代後円融天皇が永和元年(一三七五)、神田三段を寄進せられ、室町時代正親町天皇が永禄三年(一五六〇)に神田二段を献上される。この外、社領として五〇貫二〇石あったが、その後乱世となり没収された。やがて大内氏時代には、祠傍の田地数百歩を神饌料として供えられたという。江戸時代の宝暦元年(一七五一)、藩主毛利宗広が祭典を施行されるが、その後は神前に幣帛を捧げられることが常例となった。社殿については、承応元年(一六五二)、天明二年(一七八二)の再建の棟札がある。現在の社殿は、明治十二年(一八七九)、造営されたものである。『文徳實録』所載の社であることから、明治二十九年(一八九六)、社名を八幡磨能峰宮とし、同三十九年(一九〇六)、神饌幣帛料供進指定神社となる(旧県社)。[山口県神社庁HP当神社ページより抜粋]

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