ぐんだりじんじゃ
軍刀利神社のお参りの記録一覧
東京里山100選に選ばれている奥多摩の【トヤド浅間】に登った帰り、軍荼利山(ぐんだりやま)を回ってJR中央線の上野原駅に降りました。その時に以下4社にお参りしました。
2)3)について、ここに写真をアップロードします。
1)軍刀利神社元社 (ぐんだりじんじゃもとしゃ)
2)軍刀利神社奥ノ院(ぐんだりじんじゃおくのいん)
3)軍刀利神社 (ぐんだりじんじゃ)
4)石楯尾神社 (いわたておのじんじゃ)
※歩いた経路は、ヤマレコを参照ください。
→https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-2470232.html
軍刀利神社奥ノ院(ぐんだりじんじゃおくのいん)
社の手前は「天然記念物 大桂(おおかつら)」です。
天然記念物 大桂(おおかつら)の石碑です。
軍刀利神社 (ぐんだりじんじゃ)拝殿です。ここも氏子さん達がご奉仕中でした。拝殿向かって右は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東征に由来する巨大な剣が立っています。
額殿(絵馬殿?)の軒下に2間以上の長くて太い木刀が飾られていました。
額殿の中に、大東亜戦争時の奉納額があります。
額殿の中に、色々な奉納物が飾られています(1)。
額殿の中に、色々な奉納物が飾られています(2)。
額殿の中です。陸軍大将 松井石根の揮毫額。松井石根は南京事件時の総司令官として東京裁判でB級戦犯の判決を受け、1948年に東条英機や広田弘毅と一緒に死刑執行されました。wikiに処刑前に教誨師に残した以下の言葉があります。
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南京事件ではお恥ずかしい限りです。南京入城の後、慰霊祭のときに、支那人の死者もいっしょにと私が申したところ[12]、参謀長以下、何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめ、あんなことをしたのだ。私は日露戦争のとき、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、支那人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とはまったく変わっておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが、せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。ところが、そのことのあとで、みなが笑った。はなはだしいのは、ある師団長のごときは、当たり前ですよ、とさえいった。したがって、私だけでも、こういう結果になるということは、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい。せっかくこうなったのだから、このまま往生したい、と思っている。
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松井石根は「興亜観音」の創設者でもあります。興味深い人物です。
額殿の中に、色々な奉納物が飾られています(3)。
拝殿から参道を降りて振り返って撮影しています。この石段は129段だそうです。
石段下のご由緒書きです。
石段下の社務所です。新型コロナ禍で御朱印は頂けませんでした。
社務所前に置いてあった地図です。とても分かりやすいです。
社務所から約5分下って、一の鳥居です。ここから井戸バス停まで、下り600m 約8分です。
日帰り旅行の途中で参拝させて頂きました。
一の鳥居から「この道で大丈夫?」という不安を抑えつつ、神社に向かって行くと社務所の手前に駐車場があります。
この奥にも2つほど駐車場らしきものがありましたので、そちらでも大丈夫だと思われますが、満車だった場合はUターンに苦労するかもしれませんのでご注意を。
運動不足の身としては奥宮まで行くとキツイです。
更に登ると、元宮があるようなのですが、遭難の危険を感じて断念しました(「熊注意」の看板がありましたので、ハイキングを兼ねて参拝される方は、鈴をぶら下げるなりそれなりの準備をしましょう)。
社務所は不在で、「御用の方は〇〇宅まで」という張り紙がありましたが、地図等はありませんでしたので諦めていましたが、戻る途中に看板を見つけたので、そちらで御朱印を頂きました(氏子総代のお宅のようです)。
また、看板はそれ程大きくないので、注意していないと見落としてしまうかもしれません。
山梨県のおすすめ2選❄️
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