おむろせんげんじんじゃ
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小室浅間神社ではいただけません
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小室浅間神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2020年09月05日(土)
参拝:2020年9月吉日
浅間神社巡り二件目
新倉富士浅間神社から車で数分です。
境内には近くの幼稚園児がお散歩で来ていて賑やかでした。
御神馬🐴生きてる馬は初めてです。
ありがたい気持ちでしばらく眺めてきました。
浅間神社めぐりの御朱印帳を見つけてしまい、つい購入😅最初は本宮が良いと思い、急遽午後向かうことに決めました。
拝殿のすぐ近くに駐車場があって参拝後に参道の散策してきました😊
浅間神社好きかも😋
富士山から流れ来た剣丸尾(けんまるび)溶岩流の突端に御鎮座致します当神社は、延暦十二年(西暦七九三年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東征の折、古吉田の地より富士山に戦捷を祈願し大勝。
その後、征夷大将軍に任じられてからも大いに戦功をあげ、右近衛大将に出世昇進。平城天皇の命による富士郡大宮の宮建てに続き、それまでの神護を謝し大同二年(西暦八〇七年)草創したと伝えられる。
古い記録では、ただ「宮(みや)」と記されており、産土大神(うぶすなおおかみ(地域の守り神)様として富士北麓に住む人々の信仰の中心にあり、このことは当神社の筒粥祭(つつがゆさい)と流鏑馬祭に見られる「富士山参詣者の多寡・十四種の作物の出来高・一年の天候」「各集落の火事・争いごとの有無」といった占い神事からも伺うかがえる。
後のちに富士北麓近隣に多くの浅間神社が祀られるようになると、富士北麓の浅間神社のなかでも富士山から下手にあった為、いつしか「宮みや」から「下ノ宮」となり「下宮浅間(明神・神社・宮)」や「冨士山下宮」と名称が定まったと云われ、以来「下宮さん」として地域に親しまれている。
上吉田・下吉田・松山の三郷、および月江寺(げっこうじ)の総鎮守ともされ、祭礼では月江寺僧による諷経が行われ、僧侶による祈願所もおかれていた。
そして時代が下り、明治に行われた神社制度改革による全国神社の官営化合祀合併の中で、「小室浅間神社」へと改称し、それまで使用されていた「棕櫚(しゅろ)の葉」の神紋も明治以降使われなくなり「大和八重桜」に統一され、同時に月江寺僧の諷経の差し止めと退去が行われ、境内の地蔵や仏碑も破却、明治六年(西暦一八七三年)には芝座衆の権利も村役場に差し出され近代社格制度のなかで郷社となる。
戦後は、毎日新聞社の山梨県信仰投票で一位に選ばれるなど、氏子崇敬者の信仰篤く、昭和三二年(西暦一九五七年)六月一五日には山梨県で二番目となる別表神社加列となる。
古くから、筒粥や流鏑馬やの神事による占いにより地域住民の生活指針となっていた当神社は「後に各村で浅間明神を一祠に祀まつるが、今も猶なお上吉田には子生まれて百日の後、社参するに先まず下宮へ参詣す」と「甲斐国志」に記されている様に、富士吉田一円の産土大神として子供たち、地域の人々を見守り、様々な縁を執り持っている。
新倉富士浅間神社から車で数分です。
境内には近くの幼稚園児がお散歩で来ていて賑やかでした。
御神馬🐴生きてる馬は初めてです。
ありがたい気持ちでしばらく眺めてきました。
浅間神社めぐりの御朱印帳を見つけてしまい、つい購入😅最初は本宮が良いと思い、急遽午後向かうことに決めました。
拝殿のすぐ近くに駐車場があって参拝後に参道の散策してきました😊
浅間神社好きかも😋
富士山から流れ来た剣丸尾(けんまるび)溶岩流の突端に御鎮座致します当神社は、延暦十二年(西暦七九三年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東征の折、古吉田の地より富士山に戦捷を祈願し大勝。
その後、征夷大将軍に任じられてからも大いに戦功をあげ、右近衛大将に出世昇進。平城天皇の命による富士郡大宮の宮建てに続き、それまでの神護を謝し大同二年(西暦八〇七年)草創したと伝えられる。
古い記録では、ただ「宮(みや)」と記されており、産土大神(うぶすなおおかみ(地域の守り神)様として富士北麓に住む人々の信仰の中心にあり、このことは当神社の筒粥祭(つつがゆさい)と流鏑馬祭に見られる「富士山参詣者の多寡・十四種の作物の出来高・一年の天候」「各集落の火事・争いごとの有無」といった占い神事からも伺うかがえる。
後のちに富士北麓近隣に多くの浅間神社が祀られるようになると、富士北麓の浅間神社のなかでも富士山から下手にあった為、いつしか「宮みや」から「下ノ宮」となり「下宮浅間(明神・神社・宮)」や「冨士山下宮」と名称が定まったと云われ、以来「下宮さん」として地域に親しまれている。
上吉田・下吉田・松山の三郷、および月江寺(げっこうじ)の総鎮守ともされ、祭礼では月江寺僧による諷経が行われ、僧侶による祈願所もおかれていた。
そして時代が下り、明治に行われた神社制度改革による全国神社の官営化合祀合併の中で、「小室浅間神社」へと改称し、それまで使用されていた「棕櫚(しゅろ)の葉」の神紋も明治以降使われなくなり「大和八重桜」に統一され、同時に月江寺僧の諷経の差し止めと退去が行われ、境内の地蔵や仏碑も破却、明治六年(西暦一八七三年)には芝座衆の権利も村役場に差し出され近代社格制度のなかで郷社となる。
戦後は、毎日新聞社の山梨県信仰投票で一位に選ばれるなど、氏子崇敬者の信仰篤く、昭和三二年(西暦一九五七年)六月一五日には山梨県で二番目となる別表神社加列となる。
古くから、筒粥や流鏑馬やの神事による占いにより地域住民の生活指針となっていた当神社は「後に各村で浅間明神を一祠に祀まつるが、今も猶なお上吉田には子生まれて百日の後、社参するに先まず下宮へ参詣す」と「甲斐国志」に記されている様に、富士吉田一円の産土大神として子供たち、地域の人々を見守り、様々な縁を執り持っている。
すてき
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のぶさん1512投稿
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