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曹洞宗朝陽山

清光寺の御由緒・歴史
山梨県 長坂駅

創建時代仁平元年(1151年)
開山・開基興因寺(甲府市)二世悦堂宗穆和尚
ご由緒

清光寺の沿革

当寺は平安時代、仁平元年(1151年)に信立寺と称し、逸見玄源太清光の創建になる天台宗寺院で、清光の没後、清光寺に改められた。その後、文明7年(1475年)、興因寺(甲府市)二世悦堂宗穆和尚が開山となり、曹洞宗に改め、現在に至る。
清光は甲斐源氏の祖、新羅三朗義光(八幡太郎義家の弟)の孫にあたり、最初、常陸国武田郷(茨城県ひたちなか市)にいたが、父義清と共に甲斐国市河庄(西八代群市川三郷町)に配流となる。
その後、谷戸城を築き逸見郷を中心に勢力を広げ、国中を手中に収めて甲斐の国一円を統一し、甲斐源氏としての基礎を固める。次男信義が名門武田家の祖となる。
現在の堂宇は、江戸中期に建てられた総門、山門、本堂を中心に総ひのき造りの庫裡、開山堂、位牌堂を併設した檀信徒会館などがあり、特に本堂は十三間・九間という本山なみの大伽藍を誇る。
本尊は薬師如来、寺宝に勝頼公制札等。本堂裏山に開堂裏山に開基清光公の墓地。境内には芥川龍之介の句碑、大島桜、八重桜、山桜・こぶし、紫陽花・花桃・紅葉などがあり、花の時期は大変美しい。

寺山号の起源

清光公42の厄年一宇を創立して、かねて孝妣の菩提を托せられし宗甫阿闍梨を始祖となし、現当の利益を祈願するの道場となす。これを信立寺という。誠に帰宗に出ずる、寺号において知るべし。しかるに公の没後、里人これを呼んで「キヨミツデラ」という。自然に信立寺の改称となれり。いまだしらず。自ら清光寺と称せしゃ、はた発信創立の故に人呼んで信立寺といいしゃ否や。かつ山号のごときは、生前谷戸城において自ら毎朝、朝暘を遥拝して武門の名声宇内に光栄するを祈念せりと。けだししからん。しかる故に、東方に位する薬師瑠璃光如来を開創の道場に観請する。まことにゆえあるなり。(記:33世大道祖仙)

清光寺の歌

1.法燈こゝに800年 飾る歴史は甲斐源氏
 清光公の開基なる 朝暘かゞやく清光寺
2.めでたき御代の汽車の旅 くゞるトンネル夢さめて
 中央線は長坂の 駅のほとりに森深し
3.清き霊地の空高く 海抜2500尺
 雲にそびゆる大伽藍 峡北一の古禅林
4.右に駒ヶ根 前に富士 後に連なる八ヶ嶽
 祟高き自然に御仏 姿を仰ぐ尊とさや
5.断へず流るゝ鴨川も 常住に説くなり法の声
 命をすてゝ求めにし 聖者の跡を探らなん
6.菩提心に開く瑠璃の宝殿 真如の月の影に清く
 われ等の胸の雲晴れて 光明の生活たのもしき

歴史
歴史[編集] 創建[編集] 源清光(逸見黒源太清光)は源義光の孫であり、源義清(逸見冠者義清)の嫡男として天仁3年(1110年)に生まれた[1]。後に源清光は逸見太郎や黒源太と称し、谷戸城を築いた[1]。久安7年(1151年)には真言宗の道場として信立寺を城外に造った[1]。源清光は仁安3年(1168年)に亡くなり、信立寺に葬られた[1]。 中興[編集] 信立寺のその後は栄枯盛衰あったが、文明7年(1475年)に興因寺2世の宗穆和尚が曹洞宗の寺として中興した[1]。里人が「キヨミツデラ」と呼んでいたことから、清光寺と改称された[1]。 ^ a b c d e f 引用エラー: 無効...Wikipediaで続きを読む
引用元情報清光寺」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B8%85%E5%85%89%E5%AF%BA&oldid=95348497

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