しちけん
七賢の編集履歴
名前
七賢
編集前:山梨銘醸㈱ 七賢
ふりがな
しちけん
編集前:やまなしめいじょう(か しちけん
ご由緒
寛延三年(1750年)
初代蔵元 中屋伊兵衛が、信州高遠で代々酒造業を営んでいた北原家より分家。白州の水の良さに惚れ込んで、甲州街道台ヶ原の地で酒造業を始める。
天保六年(1835年)
五代蔵元 五代蔵元 北原伊兵衛延重が、母屋新築の際にかねて御用を勤めていた高遠城主内藤駿河守より、竣工祝に「竹林の七賢人」(諏訪の宮大工、立川専四郎富種)の欄間一対を頂戴する。これが現在の酒名「七賢」の由来となる。
明治十三年(1880年)
明治天皇の山梨県・三重県・京都府御巡幸に際し、母屋の奥座敷が行在所(あんざいしょ)に指定される。その際、六代蔵元北原延世が一夜侍従を勤め、御礼に「白羽二重(白絹織物2反)」、「金五拾円」が下賜された。
大正十四年(1925年)
十代蔵元 北原庫三郎が、法人「山梨銘醸株式会社」を創立、初代社長として積極経営を続け、県下最大の業績を得るに至る。
昭和八年(1933年)
明治天皇の行在所としてお使いいただいた母屋奥座敷が文部省(現文部科学省)の史蹟に指定される。
平成二十六年(2014年)
杜氏制を廃し、醸造責任者として北原亮庫が就任。
編集前:寛延三年(1750年)
初代蔵元 中屋伊兵衛が、信州高遠で代々酒造業を営んでいた北原家より分家。白州の水の良さに惚れ込んで、甲州街道台ヶ原の地で酒造業を始める。
天保六年(1835年)
五代蔵元 五代蔵元 北原伊兵衛延重が、母屋新築の際にかねて御用を勤めていた高遠城主内藤駿河守より、竣工祝に「竹林の七賢人」(諏訪の宮大工、立川専四郎富種)の欄間一対を頂戴する。これが現在の酒名「七賢」の由来となる。
明治十三年(1880年)
明治天皇の山梨県・三重県・京都府御巡幸に際し、母屋の奥座敷が行在所(あんざいしょ)に指定される。その際、六代蔵元北原延世が一夜侍従を勤め、御礼に「白羽二重(白絹織物2反)」、「金五拾円」が下賜された。
大正十四年(1925年)
十代蔵元 北原庫三郎が、法人「山梨銘醸株式会社」を創立、初代社長として積極経営を続け、県下最大の業績を得るに至る。
昭和八年(1933年)
明治天皇の行在所としてお使いいただいた母屋奥座敷が文部省(現文部科学省)の史蹟に指定される。
昭和四十二年(1967年)
十一代蔵元北原新次が、オンリーワンを目指して、醸造蔵「誠和蔵」を新築。醸造技術の向上と品質向上に寄与する。
昭和五十五年(1980年)
十二代蔵元 北原兵庫が、瓶詰工場および製品倉庫を新築。山梨銘醸の現体制を確立する。
昭和五十七年(1982年)
普通酒を廃止し、全製品を特定名称酒へ変更。
平成十一年(1999年)
農業法人(有) 大中屋を設立。地元農家と生産者グループを結成して、自ら質の高い原料米の栽培を始める。
平成十二年(2000年)
直営レストラン「臺眠(ダイミン)」を開業。地元食材を利用した旬の献立を用意して、日本酒と食の新たな提案を行っている。
平成二十六年(2014年)
杜氏制を廃し、醸造責任者として北原亮庫が就任。
平成二十六年(2014年)
2014年から5ヶ年をかけて誠和蔵の醸造設備を最新機種へ更新。安定的かつ高品質な酒造り環境を整える。
平成二十六年(2014年)
七賢ブランド戦略を導入。品質に相応しい商品の顔として、ラベルデザイン、商品ラインナップを一新した。
平成二十七年(2015年)
新たな可能性を目指し開発に5年をかけた、壜内二次発酵スパークリング日本酒「山ノ霞」発売。2016年「星ノ輝」、2017年「杜ノ奏」と3種類が揃う。
平成三十年(2018年)
北原対馬が代表取締役社長に就任。醸造責任者北原亮庫が専務取締役を兼任。
ご祭神/ご本尊
弁財天
編集前:甲斐七福神 辨財天