ほうせんじ
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法泉寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2019年12月30日(月)
参拝:2019年12月吉日
【甲府五山:法泉寺】
師走の一日、山梨県甲府市で、武田信玄が鎌倉、京都にならって定めたという五カ所の禅寺(いずれも臨済宗妙心寺派)「甲府五山」を巡りました。
信玄の息子、武田勝頼の廟所があります。お寺の由緒によると、信玄亡き後、勝頼は、長篠の戦いで大敗。以後武田家は衰運に向かい、天正10(1582)年、織田・徳川連合軍に追いつめられた勝頼は天目山(現在の甲州市大和町田野)の地で自刃し、武田家は滅亡しました。勝頼の首は織田信長の命で京都六条河原にさらし首となったのですが、法泉寺三世の快岳禅師が、妙心寺の南化和尚の力を借りて、勝頼の首(歯髪ともいわれているそうです)をもらい受け、持ち帰って手厚く葬ったとのことです。
JR甲府駅から歩けば30分ぐらいでしょうか。最寄りのバス停からでも徒歩15分とのことで、時間の節約のために駅からタクシーで向かいました。おまいり後、武田神社までは徒歩30分でした。武田神社から甲府五山の円光院までは徒歩15分ほどです。
師走の一日、山梨県甲府市で、武田信玄が鎌倉、京都にならって定めたという五カ所の禅寺(いずれも臨済宗妙心寺派)「甲府五山」を巡りました。
信玄の息子、武田勝頼の廟所があります。お寺の由緒によると、信玄亡き後、勝頼は、長篠の戦いで大敗。以後武田家は衰運に向かい、天正10(1582)年、織田・徳川連合軍に追いつめられた勝頼は天目山(現在の甲州市大和町田野)の地で自刃し、武田家は滅亡しました。勝頼の首は織田信長の命で京都六条河原にさらし首となったのですが、法泉寺三世の快岳禅師が、妙心寺の南化和尚の力を借りて、勝頼の首(歯髪ともいわれているそうです)をもらい受け、持ち帰って手厚く葬ったとのことです。
JR甲府駅から歩けば30分ぐらいでしょうか。最寄りのバス停からでも徒歩15分とのことで、時間の節約のために駅からタクシーで向かいました。おまいり後、武田神社までは徒歩30分でした。武田神社から甲府五山の円光院までは徒歩15分ほどです。
すてき
投稿者のプロフィール
sendatsu974投稿
転勤で3年間、関西で過ごした際に西国三十三観音を2巡し、東京に戻り坂東三十三観音、秩父三十四観音を巡って百観音を結願しました。寺社を巡っていると、東京の街にも思わぬ発見があります。
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