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いみのみやじんじゃ

忌宮神社の御由緒・歴史
公式山口県 長府駅

ご祭神御祭神
仲哀天皇・神功皇后・応神天皇
別宮
若宮社:仁徳天皇
高良社:地主大神・武内宿禰
摂社
八坂神社:素戔男尊をはじめ42柱(神社合祀のため)
惣社宮:天神地祇
守宮司神社:応神天皇
末社
荒熊稲荷神社:宇迦之御魂神・宗像三女神
ご由緒

第14代仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)ご平定のために西下、穴門(長門)豊浦宮(仮の皇居)を建てられ7年間政治をとられた地にあります。
天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出せられましたが、1年にして崩御せられた(亡くなられた)ので神功皇后は喪を秘して重臣 武内宿禰に命じて御遺骸(みなきがら)を豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町の土肥山に殯斂(ひんれん)(仮埋葬)せられました。
そして神功皇后はご懐妊中ながら、熊襲を煽り立てていた新羅征討(しらぎせいとう)をご決行、ご凱旋ののち、仲哀天皇の御神霊を豊浦宮にお祀りせられました。これが当社の起源です。 そのあと、神功皇后は皇子(のちの応神天皇)をご安産になられました。
くだって聖武天皇の御代(時代)に神功皇后をお祀りして「忌宮」ととなり、さらに応神天皇をお祀りして「豊明宮」と称し、「豊浦宮」「忌宮」「豊明宮」と三殿別立の古社(延喜式式内社)として栄えたが、中世の火災により中殿の忌宮に合祀(合わせてお祀り)したため次第に「忌宮」の名をもって呼ばれるようになりました。

歴史
歴史[編集] 仲哀天皇元年(192年)に熊襲の征討に訪れ、仲哀天皇2年(193年)に行宮豊浦宮を建てられた。三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。 仲哀天皇8年(199年)に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝える。聖武天皇の時代に神功皇后・応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神...Wikipediaで続きを読む
引用元情報忌宮神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%BF%8C%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=102065896

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