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善正寺ではいただけません
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善正寺のお参りの記録(1回目)
山口県防府駅

投稿日:2020年03月13日(金)
参拝:2020年3月吉日
浄土真宗本願寺派 
至宝山 善正寺(ぜんしょうじ)


以下善正寺 ホームページより

善正寺の歴史建立時の時代背景

この頃は室町幕府第12代足利義晴の治世で
山口では大内氏が周防、長門を拠点に
山陰地方東部の尼子氏をおさえ
石見、安芸、備後に勢力を伸ばし
西は豊前、筑前を治めるなど西国一の
守護大名として全盛期を迎えていました
 また和歌や禅宗、絵画や儒学など
宮廷や公家の影響を強く受けた
華やかな大内文化も生まれ文化的にも
栄えていました。
 さらに天文18年(1549)鹿児島に上陸した
フランシスコ・サビエルが上洛する途中
大内氏16代当主大内義隆に謁見したのも
当時建立の9年後のことといえます
 これら大内氏の繁栄は、経済的には
日明貿易の主要貿易ルートである九州から
瀬戸内海域を支配することで
莫大な富を独占できたためといえます



防府の開作と至宝山善正寺

 さて、当寺が建立されたころ
この田島は前述したとおり
佐野峠の沖に見える小島であり
玉祖神社(一宮)の社領でした。
良清師はこの田島の東浦小泊から上陸し
岡庄の南の小高いこの地
大倉をえらばれたといわれています。
 当時の田島は住民も少なく
困難も多かったと思われます
しかし、ご門徒をはじめ地元の皆様の協力を
いただきながらともに寺を守り
御仏の教えを伝え広げたことと
当時をしのび、思いを馳せております
 さて、開基以来90年ほど経った17世紀頃
ここ善正寺周辺でも新たな変化が見られ始めます。そう、開作(新田開発)事業です
 寛永5年(1628)毛利元就のひ孫に
あたる毛利秀就が初代萩藩主出会った時
田島も汐合開作により陸続きとなりました。
 その後、北側から西浦の女山周辺
東浦へと順次、開作が進み
明和4年(1767)には浜方大浜まで広がり
ほぼ現在の防府市中の席一帯が
形成されていきました。
さらに、ここ田島東浦も人の往来が増え始め
本寺の記憶によると、たびたび身分の高い人や
藩の役人たちが参詣し
宿泊していったと書かれています。
 また、この間の17世紀中期の寛文年間には
山門が造られ、延宝4年(1676)には
荒廃していた本道が落慶し
寺名に「至宝山」冠し
至宝山善正寺と号しました。
善正寺の建物その他
まさに門構えが素晴らしい
善正寺の山門
善正寺の歴史
境内の奥に 
きんこう第二保育園があります
善正寺の建物その他
山門のすぐ横に鐘楼 こちらも重厚です
善正寺の手水
手水舎のすぐ隣に遊具があります
重厚な景観にミスマッチなような
可愛らしいような^ ^
善正寺の本殿
善正寺の芸術
素敵な龍の彫物
善正寺の像
親鸞聖人 幼少の像 凛々しいですね^ ^
善正寺の自然
善正寺の建物その他

すてき

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