とうけいじんじゃ
闘鶏神社のお参りの記録(1回目)
「口熊野」闘鶏神社です。
闘鶏神社は京都・大阪から続く紀伊路の分岐点にあたる紀伊田辺にあります。社殿が一列に並ぶ様は大斎原に在りし日の熊野本宮大社に似ているとか。
当社は熊野三山の玄関口とされ、熊野三山の祭神を祀る別宮の性格を持っています。
社号の由来は源平合戦の際に紅白の鶏を闘わせたことからきており、白の鶏が勝つのを見て源氏に与したのは時の熊野別当であった湛増。武蔵坊弁慶の父との説もある人物です。
闘鶏神社に参拝の後は、昔の巡礼者の足跡をたどり中辺路を本宮へと向かいました。
その21へ
https://hotokami.jp/area/wakayama/Hrtts/Hrttstk/Dskmy/103072/98458/
その23へ
https://hotokami.jp/area/wakayama/Hrtts/Hrttstk/Dskmy/103076/100303/
地元のボランティアの方が内宮式年遷宮の際にいただいた木材で建てた鳥居と教えてくれました。
綺麗に整備された参道ですね。
二の鳥居前に設置された長さ230mの馬場跡。
江戸時代より流鏑馬が行われていたそうです。
ご祭神:武蔵坊弁慶
諸説ありますがここ紀伊田辺は弁慶の生誕地とされ奥州平泉にて亡くなった弁慶を悼んだ田辺の人々によって「弁慶松」が植えられました。弁慶松の根元で祀られてきたお社が遷座されたものです。
ご利益は立身出世・衆災消除。
ご祭神:安藤直次公
徳川家康の子:頼宣の傅役にして家康の側近。
頼宣が紀州徳川家の家祖となった際、附家老として田辺に封ぜられました。城下町の整備を行い明治に至るまでの発展の基礎をつくった人物です。
樹齢は約1200年。
ご祭神:伊邪那美命
速玉宮:速玉之男命、結宮:事解之男命
二柱の神は人の誕生と寿命を司るとされます。
若宮:天照皇大神・伊邪那岐命・宇賀御魂命
禅師宮:忍穂耳命(天照皇大神の御子神)
聖宮:瓊々杵命(忍穂耳命の御子神)
児宮:火々出見命(瓊々杵命の御子神・山彦)
子守宮:鵜草葦不合命(火々出見命の御子神)
鵜草葦不合命の御子が神武天皇とされます。
一萬宮:火産霊命(火の神)
十萬宮:埴山比売命(土の神)
勧請十五社宮:弥都波能売命(水の神)
飛行宮:稚産霊命(五穀・養蚕の神)
四柱の神は生活の源泉と産業を守護する神です。
満山宮:八百萬神・手力男命
ヤオヨロズノカミ…?なんと懐の広いお社でしょう。
ご祭神:戎大国二神
商売繁盛・招福金運の神。
ご祭神:手置帆負命
建築・造船・大工の神。
ご祭神:市杵島姫命
音楽・芸術の神。弁天さま。
一の谷の戦から海上戦に移った源平合戦において、当時最強を誇った熊野水軍の動向が勝敗に大きな影響を及ぼすため、源平双方からの働きかけは熾烈を極めたとされます。義経の命を受けた弁慶は湛増の説得に成功し、湛増は紅白の鶏を闘わせて神意を確認したとか。
ご朱印を書いて下さった神職さんが同じメーカーのカメラをお使いで話が盛り上がりました。
神職さんに道分け石の場所を聞いてお社を後に。
ありがとうございました。
紀伊田辺は大辺路と中辺路の分岐点として発展してきました。京都・大阪から続いてきた紀伊路が那智への大辺路と本宮への中辺路に分かれます。
手前(紀伊路)左(中辺路)奥(大辺路)。
紀伊路からの旅人は「左くまの道」の指示に従って本宮大社へ。中辺路からの旅人は「右きみい寺」の指示に従って紀三井寺へ向かったのでしょう。
それでは中辺路をたどって行きましょう。
(テーマが「参詣道」ですから)
中辺路は白河上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇、藤原定家なども通った道です。熊野古道沿いには皇族・貴人の熊野詣に際して守護を祈願したお社が点在し「九十九王子」と呼ばれます。
九十九王子の中で格式を異にする五体王子の一つ。
五体王子の一つ。
滝尻王子より先は熊野の聖域とされました。
太陽の光を遮るように樹木が生い茂り薄暗い境内。
まさに聖域のはじまりといった感が。
熊野本宮大社まで続く長く険しい山道。カーナビは本宮大社まで約35km先と示しています。苦難の果てにたどり着いたお社は当時の人々の目にどう映ったのか。それでは本宮大社へ参りましょうか。
すてき
みんなのコメント(4件)
としさん こんにちはっ( ・∀・)ノ
手水舎の龍神さまが
『みんなの参拝待ってるよっ』
…そう言ってくださってるみたい(。・´_`・。)
武藏坊弁慶って紀伊田辺で生まれたなんて
私初めてしりました‼
ずっこさん
こんにちは。(^o^)
平日の手水舎の龍神さまは少しお暇だったのかもしれません。鳩も境内でのんびりしてました。地元のボランティアの方によれば土日は参拝者が多く、鳩は屋根の上から降りてこないとか。
闘鶏神社はぜひ多くの方にお詣りして頂きたいですね。
弁慶については記録があまりないらしく、今の義経や弁慶のイメージは室町時代に書かれた義経記を基にしたものらしいです。
でも、田辺には弁慶の産湯の釜が残ってたり、弁慶松が地元民によって植えられたりしてるので、きっと弁慶は和歌山県民だったのでしょう。
おはようございます( ・∀・)ノ
改めて最初のお写真からずっと見てました
熊野本宮大社までの長く険しい山道
それこそ
命をかけてでも…そんな思いだったのかもしれませんね…。
もしそうだとしたら
熊野本宮大社にたどり着いた時
今の時代の日々の『感謝』
それとは全く違う比べ物にならない『感謝』を述べていたのだと思います
ずっこさん
記事を改めて読んで頂きありがとうございます(😂喜)
今の我々には想像つかないことですが、中辺路は川沿いにあり河原が途切れたら反対側へ渡河し、途切れたら渡河しを何度も繰り返したそうです。そして山が深くなってきたら尾根沿いの道へ…。
当時、熊野は浄土に近い場所とされ人々はそこまでして浄土へ導かれたいと思ったのでしょうね。本宮大社が目前に迫り、初めて大斎原の大鳥居が見える場所を伏拝王子といい、文字通り大鳥居を伏して拝んだそうです。昔の巡礼者の思いの強さは今と比べ物にならないですね。
当時の人々の思いを辿ろうと、お社だけでなく古道を回った記事にしていたので、ずっこさんに読み取って頂けて嬉しいです。m(__)m感謝。
次回は本宮大社へ参拝する予定ですが、少し熊野古道を歩いてみたいと思ってます。
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