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2024年09月22日(日) 08時36分 byれん太郎
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その開基は仁徳帝の頃(4世紀)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。 その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。 平安朝中期から鎌倉時代は、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰が盛んになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番礼所となりました。 現在の本堂は、織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ紀南で一番古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さと同じであるといわれています。 青岸渡寺尊勝院は、那智山開山の裸形上人像と如来像を安置。中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていました。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっています。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、鎌倉時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘があります
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その開基は仁徳帝の頃(4世紀)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝において修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。 その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した八寸の観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。 平安朝中期から鎌倉時代は、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰が盛んになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番礼所となりました。 現在の本堂は、織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ紀南で一番古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さと同じであるといわれています。 青岸渡寺尊勝院は、那智山開山の裸形上人像と如来像を安置。中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていました。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっています。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、鎌倉時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘があります
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<h3>太閤・秀吉も愛した壮麗なる寺院。那智の滝とのコントラストも絶妙</h3> <h3>西国三十三ヶ所第一番札所</h3>
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<h3>太閤・秀吉も愛した壮麗なる寺院。那智の滝とのコントラストも絶妙</h3> <h3>西国三十三ヶ所第一番札所</h3>
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寺防災道路終点に有料🅿有り
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西国三十三箇所観音霊場第1番札所 神仏霊場巡拝の道・第2番 東海近畿地蔵霊場特別札所 東海白寿三十三観音特別札所 熊野曼陀羅三十三ヶ所霊場第19番札所
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西国三十三箇所観音霊場第1番札所 神仏霊場巡拝の道・第2番 東海近畿地蔵霊場特別札所 東海白寿三十三観音特別札所 熊野曼陀羅三十三ヶ所霊場第19番札所
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真ん中に普照殿、左に那智山と書かれ、右上に西国第壱番札所の印、真ん中に梵字の印、左下に那智山納経所の印が押されています。 西国三十三所第一番札所の御詠歌の御朱印、那智七福神の大黒天の御朱印、三重塔円通殿の御朱印があります。
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真ん中に普照殿、左に那智山と書かれ、右上に西国第壱番札所の印、真ん中に梵字の印、左下に那智山納経所の印が押されています。 西国三十三所第一番札所の御詠歌の御朱印、那智七福神の大黒天の御朱印、三重塔円通殿の御朱印があります。
