ほうじょうづはちまんぐう
放生津八幡宮のお参りの記録一覧
郷土出身の偉大な詩聖、牧野茂(鉄篴(てつてき))が昭和14年に当宮に奉納した漢詩文に「東は太刀山の連峰を仰ぎ、北は日本海の蒼波に枕(のぞ)み、右に海龍湖あり、左に射水川あり・・・」と歌った。その景勝地が当宮周囲の風景である。万葉の昔、越中国守・大伴家持が「あゆの風 いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の 釣りする小舟 漕ぎ隠る見ゆ」と万葉集に歌ったように、奈呉の浦に面している。また、「湊風(みなとかぜ) 寒く吹くらし 奈呉の江に 妻呼び交わし 田鶴(たづ)さわに鳴く」と歌ったように越の潟(こしのかた)に隣接していた。奈良時代から海人の集落があり、漁業が行われていたことが万葉集から窺える。当宮は、その奈呉の地に、越中国守大伴家持が、宇佐八幡神を勧請し、奈呉八幡宮として鎮座された。この地域は、当宮の放生会に由来し、放生津と呼ばれるようになった。鎌倉時代の古文書に放生津(ほうじようづ)の名が見られ、鎌倉時代には地名として定着していたことが分かる。鎌倉時代に、放生津に守護所が置かれ、越中国の武家政治の中心地となった。鎌倉期以来、放生津は港町として栄え、近世に至っては、北前船の交易でも栄え、漁業とともに繁栄した。
大伴家持が奈古の浦の勝景を気にいって敬神の念を普及しようと創始したそうです。
狛犬がとても特徴的です。木彫りで彫りの深いお顔です。
書について、一つ一つ丁寧に説明していただきました。とても美しい字体の御朱印です。
これが木彫りの狛犬です。ほれぼれします。
こちらの狛犬も素敵です。
お相撲も行われたとのことです。
参拝のしおりです。
龍神さまがいいですね。
八幡宮の看板です。
鳳凰のお守りをいただきました。
鳥居です。
説明看板です。
馬の銅像です。
外観です。歴史を感じさせてくれる神社です。
説明の看板です。
「大伴家持創建による万葉の古社」と書かれた看板を見ながら鳥居をくぐります
「大伴家持創建による万葉の古社」と書かれた看板を見ながら鳥居をくぐります
放生津八幡宮の由緒書き(観光協会による)
鳥居越しの拝殿
神馬像には、神紋である「五七桐」と「十六菊」の合わせ紋がある。(前田利家が使っていた)
#放生津八幡宮
ご祭神は応神天皇。配祀神に仁徳天皇。
#應神天皇
歴代天皇の例に漏れず、応神天皇も実に子だくさんだ。僕が参拝したことがあるのは、オオサザキの尊、ヌカタノオオナカツヒコの命、ウジノワキイラツコの命、ハヤフサワケ命の4柱。
オオサザキの尊は次の仁徳天皇として即位した。高津宮や難波神社(共に大阪市中央区)のご祭神。
ヌカタノオオナカツヒコの命は即位したい気持ちがあったのか、応神天皇が崩御した直後オオサザキの尊と少しギクシャクしていたが、後年、仲直りしたらしい。オオサザキの尊と共に、氷室神社(奈良県奈良市)のご祭神。
ウジノワキイラツコの命は応神天皇が特に愛した子で次の天皇に指名していたが、儒教の影響で長子が相続すべきと考え拒否。オオサザキの尊も父の希望に沿うべく即位しようとしなかったので、このままでは国が安定しないと考え、自害した。宇治上神社や宇治神社(共に京都府宇治市)のご祭神。
ハヤフサワケの命は仁徳天皇の即位後に登場。妻メドリの王が天皇を挑発する内容の和歌をくり返し詠み、しまいには彼の命を奪ってやりなさいなどと歌い、最後は夫婦とも殺された。父親と共に、水尾神社(滋賀県高島市)の境内社・八幡神社のご祭神。水尾神社は彼が第26代・継体天皇の先祖とする。
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