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勝興寺ではいただけません
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勝興寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年10月23日(土)
参拝:2021年9月吉日
本願寺八世蓮如上人が、文明3年(1471年)越中の布教の拠点として、砺波郡蟹谷庄土山(現在の南砺市福光土山)に土山御坊を開き、蓮如の子孫が代々住職を務めました。本願寺が門跡に任ぜられると他の寺院とともに院家に任ぜられるなど、真宗王国越中における代表的寺院であると同時に、本願寺を支える連枝寺院の一つとして重要な働きをなしてきました。
永正14年(1517年)寺号を本山に申請したところ、佐渡にあって廃絶していた順徳上皇勅願所「殊勝請願 興行寺」を再興相続して、勝興寺と称することを認められました。その後、戦国時代には、越中一向一揆の旗頭として活躍し、越前朝倉氏、甲斐武田氏をはじめとする戦国大名や、本願寺、京都公家などと関係を深めていくようになります。当時の複雑な政治情勢の中で、二度の移転を経た後、天正12年(1584年)に現在地の高岡市伏木古国府に移り、藩政時代に入ると加賀藩前田家と関係を深めるようになり、越中における浄土真宗の触頭として、近代に至るまで繁栄しました。
現在、約30,000㎡の広大な境内には、本堂をはじめとする、12棟の建造物が重要文化財に指定されております。本堂は勝興寺住職より還俗して、加賀藩主第11代を継いだ前田治脩の支援を受け、西本願寺の阿弥陀堂を模して寛政7年(1795年)に建立されました。これら重要文化財12棟は、江戸時代中期から後期にかけて建てられたものです。
伽藍内の建造物は、200年から300年の年月が経過しており、損傷・破損も激しく、このたび、平成の大修理として、文化庁の補助をうけて、平成10年度から約23カ年計画で保存修理事業にとりかかっており、平成16年度に第1期事業として、本堂の修復が完工し、第Ⅱ期修復工事として他11棟の工事が進められています。また、この境内地は、奈良時代の越中国庁の所在地であり、国守として万葉の代表的歌人大伴家持が5年間(746〜751年)この地に赴任し、越中の自然と風土を詠んだ、多くの秀歌が万葉集に収載されております。
永正14年(1517年)寺号を本山に申請したところ、佐渡にあって廃絶していた順徳上皇勅願所「殊勝請願 興行寺」を再興相続して、勝興寺と称することを認められました。その後、戦国時代には、越中一向一揆の旗頭として活躍し、越前朝倉氏、甲斐武田氏をはじめとする戦国大名や、本願寺、京都公家などと関係を深めていくようになります。当時の複雑な政治情勢の中で、二度の移転を経た後、天正12年(1584年)に現在地の高岡市伏木古国府に移り、藩政時代に入ると加賀藩前田家と関係を深めるようになり、越中における浄土真宗の触頭として、近代に至るまで繁栄しました。
現在、約30,000㎡の広大な境内には、本堂をはじめとする、12棟の建造物が重要文化財に指定されております。本堂は勝興寺住職より還俗して、加賀藩主第11代を継いだ前田治脩の支援を受け、西本願寺の阿弥陀堂を模して寛政7年(1795年)に建立されました。これら重要文化財12棟は、江戸時代中期から後期にかけて建てられたものです。
伽藍内の建造物は、200年から300年の年月が経過しており、損傷・破損も激しく、このたび、平成の大修理として、文化庁の補助をうけて、平成10年度から約23カ年計画で保存修理事業にとりかかっており、平成16年度に第1期事業として、本堂の修復が完工し、第Ⅱ期修復工事として他11棟の工事が進められています。また、この境内地は、奈良時代の越中国庁の所在地であり、国守として万葉の代表的歌人大伴家持が5年間(746〜751年)この地に赴任し、越中の自然と風土を詠んだ、多くの秀歌が万葉集に収載されております。
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