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気多神社ではいただけません
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気多神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2021年10月21日(木)
参拝:2021年9月吉日
二上山の東麓の高台に位置し、南南東1Kmに国衙跡とされる古古府がある。また東南500mには国分寺跡とされる薬師堂があり、越中国の中心部に位置している。
よって、当社は越中国一宮と称し、地名も一ノ宮。越中には、一宮と自称する神社が四社あるが、その一つ。国府の移動や、勢力の変化によって、一宮も変遷したのだという。他の一宮は、高瀬、射水、雄山の三社。
社伝によれば、養老元年(717)、能登・気多大社からの勧請。
能登は、養老2年(718)に越前から分立し、天平13年(741)越中に合併。その時点で、能登の気多大社が、越中全体の一宮であった。その17年後の、天平宝字元年(757)に、再度分立しているため、その頃に、国府に近い当地に、分霊を祀ったものと考えられている。
延喜式には、「名神大社」とあるが、写本によっては射水神社が名神大社となっており、混乱が見られる。
『白山記』には、二上(射水)と新気多が勢力争いをして、新気多が勝ち、一宮となったとあるらしい。
よって、当社は越中国一宮と称し、地名も一ノ宮。越中には、一宮と自称する神社が四社あるが、その一つ。国府の移動や、勢力の変化によって、一宮も変遷したのだという。他の一宮は、高瀬、射水、雄山の三社。
社伝によれば、養老元年(717)、能登・気多大社からの勧請。
能登は、養老2年(718)に越前から分立し、天平13年(741)越中に合併。その時点で、能登の気多大社が、越中全体の一宮であった。その17年後の、天平宝字元年(757)に、再度分立しているため、その頃に、国府に近い当地に、分霊を祀ったものと考えられている。
延喜式には、「名神大社」とあるが、写本によっては射水神社が名神大社となっており、混乱が見られる。
『白山記』には、二上(射水)と新気多が勢力争いをして、新気多が勝ち、一宮となったとあるらしい。
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