おやまじんじゃちゅうぐうきがんでん
雄山神社中宮祈願殿富山県 立山駅
祈祷受付/9:00~15:30
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楽しみ方
今回の雄山神社はこちらまで。いつか雄山神社峰本社へは登拝したい。かつて中宮寺(芦峅寺)と呼ばれた神仏習合の施設、芦峅寺における立山信仰の拠点です。開祖佐伯有頼は、この地で晩年を過ごしています。越中國一宮で先に参拝した前立社壇といつかは参拝するであろう峰本社で構成される尾山神社です。ですので正確には雄山神社を参拝したとは云えないかも。勿論、御祭神・御神徳は同じです。女人禁制だった以前の立山信仰では女性が参拝できる最後の場所でした。明治になり廃仏毀釈により寺関係はことごとく破却されてしまいましたが、比叡山のように一帯全てが施設内だったようです。当時に比べれば規模は小さくなってしまいましたが、境内に林立する杉は樹齢500年を越えているので圧巻です。観光地的要素はあまりないので境内を一通り散策して、帰宅してから写真を見ながら「へぇ~」そうだったのかと思うところが多い神社でした。拝殿内に授与所があるので、中に入ることが出来ます。御朱印を待つ間、少しお話させていただきましたが、この辺りは熊野生息域なので日没後などは注意が必要とのこと。ある意味熊と共生している地域なのだなと感心してしまいました。
昭和十五年(1940)建立の社号標
由緒書
昭和二年(1927)建立の鳥居
参道
参道両脇に巨石
手水舎
手水盤
1キロ離れた山奥の水神社の岩清水を引いています
不動明王線描碑 開山のきっかけとなった白鷹は不動明王の化身とされています
昭和十二年(1937)奉納の狛犬
この辺りの地域は向かいあってはいなく、正面を見ています
参道
斎館
境内社 神明社(麻続御祖社・皇大神宮・豊受大神宮)
境内社 治国社(宝童社)御祭神:新川姫神
石舞台
昭和己酉年(昭和四十四年、1969)雄山神社宮司佐伯幸長建立の伝慈興上人遺詠碑
神橋(斎戒橋)
元禄二年?(1689)奉納の燈籠
参道が分かれます、右へ進むと立山若宮・開山堂、左へ進むと中宮祈願殿(拝殿)
参道、このまま進むと立山大宮
開山の祖、佐伯有頼少年と熊かな?熊は亀を脚で押さえています
熊は阿弥陀如来の化身とされていますが、亀は何を表しているのか?
大正十五年(1926)奉納の燈籠
立山開山廟 立山玉殿岩窟において霊示を受け立山を開山した佐伯有頼公(出家して慈興と号す)が、天平宝字三年(759)、八十三歳で入定された地と伝えられています
剱嶽社(遥拝所)
剱岳山頂にあった旧社殿
更に進むと開山堂
天保十一年(1840)奉納の燈籠
立山開山御廟所
「開山堂」説明板
少し幟の参道
開山堂へ上がると眼下に立山博物館が見えます
別宮(開山堂) 御祭神:佐伯有頼公
杉の木が注連柱のよう
大正十二年(1923)奉納の燈籠
燈籠
「若宮社殿」説明板
東本殿(立山若宮)御祭神:刀尾天神(天手力雄命)・稲背入彦命・佐伯有頼命
文治元年(1185)に鎌倉幕府が大内冠者惟義に命じて造営したと伝えられています。現在の社殿は天正十六年(1588)建立とされています
立山若宮側面
県指定天然記念物「芦峅雄山神社境内杉林」案内板
合祭殿(拝殿)両本殿主祭神をはじめ立山全山三十六末社の神々を合祀。江戸時代までは大講堂と呼ばれていた建物
扁額「立山大権現」
本殿
明治三十六年(1903)建立の「立山大宮」標
立山大宮へと続く参道
萬延元年(1860)奉納の燈籠
文化八年(1811)奉納の燈籠
西本殿(立山大宮) 御祭神:立山権現伊邪那伎大神
相殿:文武天皇・佐伯宿禰有若公
扁額
立山大宮からの参道
境内社 神秘社(山神社)御祭神:造化三神(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)・大山祇神・久々廼智神
燈籠
境内社 閼伽池社 御祭神:高龗神・暗龗神
背後に神池らしきものが見えます
燈籠
昭和三年(1928)奉納の燈籠
境内社 稲荷社
燈籠
大正十四年(1925)奉納の燈籠
今から約一三〇〇年前、文武天皇の大宝元年(701)第十二代景行天皇の後裔、越中の国司佐伯宿禰有若卿の嫡男有頼公が、白鷹と黒熊に導かれ立山の玉殿岩窟において「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という立山両権現の霊示を受け、文武天皇の勅命により開山されたのが霊峰立山である。その立山を神山と仰ぎ、山麓芦峅寺に立山雄山神(立山大宮)、剣岳の刀尾神(立山若宮)の両権現を奉斎する根本中宮をはじめ壮大なる神社仏閣が建立され、岩峅寺にも社殿が建てられて、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したのである。有頼公自らは出家して慈興と号し、立山座主として芦峅寺に居を定め、立山信仰の弘宣に生涯を捧げられたのである。
以来神仏習合の一大霊場として皇室をはじめ武将名門の崇敬を受け、元明天皇・後醍醐天皇の勅願所となり、また清和天皇の貞観5年・宇多天皇の寛平元年に叙位せられた。
平安期の後白河法皇御撰の『梁塵秘抄』には「験仏の尊きは先づ東の立山」と全国著名の霊場の冒頭に記され、また鎌倉時代の安居院編纂の『神道集』に「越中国一宮」、洞院公賢が著した『拾芥抄』に「雄山神社は新川郡葦峅寺にあり」と銘記されており、広く信仰を集めていたことが窺われる。
鎌倉幕府が文治元年に諸堂を造営、室町幕府足利歴代将軍、越中守護代神保長誠公、佐々成政公等々、殊のほか深く崇敬し保護造営されてきた霊場も、天正13年8月、富山城主佐々成政征討のため越中に軍を進めた豊臣秀吉により芦峅寺が悉く焼き払われ、以前の諸堂を殆ど失うこととなった。このことについては「東は立山ウバダウつるぎの山の麓迄、令放火候」と、秀吉が藤三蔵ら五名の近畿大名に送った文書が高野山に残され、『続群書類従』にも「至リ越後界ニ、立山、剣、祖母堂、廻シ人数ヲ」と載せられている。祖母堂(うばどう)とは芦峅寺のことである。
前田利家公が加賀藩主となり復興造営に保護を加え、再び盛賑を極めたものの、明治維新の廃仏毀釈・神仏判然令により一大改新を加えられたため、布橋灌頂において重要な役割を果たした中宮寺ウバ堂は廃止され、天下三霊橋と誇った布橋も落ち、塔中諸坊も四散し芦峅寺は廃墟と化してしまった。ただ、根本中宮の境内とその講堂が雄山神社中宮祈願殿として残り、明治6年に県社、昭和15年に国幣小社に列せられた。(神社HPより)












| 住所 | 富山県中新川郡立山町芦峅寺2 |
|---|---|
| 行き方 | 立山地方鉄道立山線、千垣駅より徒歩30分あるいは立山町営バス「芦峅寺線」にて5分(日曜運休)
|
| 名称 | 雄山神社中宮祈願殿 |
|---|---|
| 読み方 | おやまじんじゃちゅうぐうきがんでん |
| 参拝時間 | 祈祷受付/9:00~15:30 |
| 参拝にかかる時間 | 30分 |
| 御朱印 | あり 真ん中に雄山神社、右下に祈願殿と書かれ、右上に芦峅中宮の印、真ん中に雄山神社の印、祈願殿の印が押されています。 |
| 限定御朱印 | なし |
| 御朱印帳に直書き | あり |
| 御朱印の郵送対応 | なし |
| 御朱印帳 | あり |
| 電話番号 | 076-482-1545 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| ホームページ | http://www.oyamajinja.org/kiganden.htm |
| 絵馬 | あり |
| 日本全国の一宮まとめ |
|---|
| ご祭神 | 《主》伊邪那伎尊,天手力雄尊 |
|---|---|
| ご由緒 | 今から約一三〇〇年前、文武天皇の大宝元年(701)第十二代景行天皇の後裔、越中の国司佐伯宿禰有若卿の嫡男有頼公が、白鷹と黒熊に導かれ立山の玉殿岩窟において「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という立山両権現の霊示を受け、文武天皇の勅命により開山されたのが霊峰立山である。その立山を神山と仰ぎ、山麓芦峅寺に立山雄山神(立山大宮)、剣岳の刀尾神(立山若宮)の両権現を奉斎する根本中宮をはじめ壮大なる神社仏閣が建立され、岩峅寺にも社殿が建てられて、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したのである。有頼公自らは出家して慈興と号し、立山座主として芦峅寺に居を定め、立山信仰の弘宣に生涯を捧げられたのである。
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| 体験 | 祈祷お祓い御朱印お守り一の宮伝説 |
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