くまのじんじゃ
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熊野神社ではいただけません
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熊野神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年03月23日(土)
参拝:2024年3月吉日
瑞光寺様から初参拝。都庁の近くにある熊野神社様へ…
本当にお天気荒れるの?と疑いたくなるくらい青空でした。
年末からインスタで竜の御守が載っていて欲しかったのですが、保存するのを忘れて何処の神社様でいただけるのかわからなくなってしまい色々検索しても出てこず💦最近になってポッと出てきたのが熊野神社様でしっかり保存してお参りに行きました😊
【新宿十二社 熊野神社】
十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394年~1428年)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文•永禄年間(1532年~1569年)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。
鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403年)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。
江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
また、享保年間(1716年~1735年)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。
明治維新後は、現在の櫛御気野大神•伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
ー熊野神社HPよりー
本当にお天気荒れるの?と疑いたくなるくらい青空でした。
年末からインスタで竜の御守が載っていて欲しかったのですが、保存するのを忘れて何処の神社様でいただけるのかわからなくなってしまい色々検索しても出てこず💦最近になってポッと出てきたのが熊野神社様でしっかり保存してお参りに行きました😊
【新宿十二社 熊野神社】
十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394年~1428年)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祠ったものと伝えられます(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文•永禄年間(1532年~1569年)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったともいいます)。
鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403年)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったといいます。
江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
また、享保年間(1716年~1735年)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。
明治維新後は、現在の櫛御気野大神•伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
ー熊野神社HPよりー
☆社号碑☆
☆鳥居⛩️☆
☆神輿蔵☆
神社の宮神輿(大神輿)と、熊野神社の氏子の組織である睦の町神輿(大人神輿と子供神輿)が保管されています。
一之宮神輿は、昭和3年(1928年)に十二社と淀橋の氏子により製作されたものです、二之宮神輿は平成9年(1997年)に
御鎮座600年を記念して製作されました、両神輿とも三年に一度大祭に巡幸します。
神社の宮神輿(大神輿)と、熊野神社の氏子の組織である睦の町神輿(大人神輿と子供神輿)が保管されています。
一之宮神輿は、昭和3年(1928年)に十二社と淀橋の氏子により製作されたものです、二之宮神輿は平成9年(1997年)に
御鎮座600年を記念して製作されました、両神輿とも三年に一度大祭に巡幸します。
☆十二社の碑(新宿区指定史跡)☆
ここ十二社の池が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851年)3月に建てられました。
高さ210cm、幅119cm、幕末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』を著した儒学者寺門静軒と、中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、当時名高かった景勝地十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字あります。
また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は、286字に及びます。
書は中川憲齋(日本書堂•大彭を号する)によるものです。
ここ十二社の池が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851年)3月に建てられました。
高さ210cm、幅119cm、幕末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』を著した儒学者寺門静軒と、中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、当時名高かった景勝地十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字あります。
また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は、286字に及びます。
書は中川憲齋(日本書堂•大彭を号する)によるものです。
☆神楽殿☆
☆鳥居⛩️と手水舎☆
☆御拝殿☆
八咫烏ばかり気にして下を撮るの忘れてしまった💦
下の部分には十二支の文字が刻まれていました
🐭🐮🐯🐰🐲🐍🐴🐏🐵🐔🐶🐗
下の部分には十二支の文字が刻まれていました
🐭🐮🐯🐰🐲🐍🐴🐏🐵🐔🐶🐗
☆御拝殿前の狛犬様☆
【御祭神】
櫛御気野神
伊邪那美神
櫛御気野神
伊邪那美神
☆大田南畝の水鉢(新宿区指定有形文化財)☆
文政3年(1820年)に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師として有名な大田南畝(蜀山人)(1749年~1823年)の書による銘文が刻まれています。
文政3年の熊野神社の祭礼には、大池で角乗•筏乗が出るなど盛大なものでしたが、この水鉢もその祭に奉納されたものと思われます。鉢の大きさは、外部が幅150cm、高さ60cm、奥行64cm、内部の鉢の部分は幅126cm、深さ23cm、奥行40cmあります。
文政3年(1820年)に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師として有名な大田南畝(蜀山人)(1749年~1823年)の書による銘文が刻まれています。
文政3年の熊野神社の祭礼には、大池で角乗•筏乗が出るなど盛大なものでしたが、この水鉢もその祭に奉納されたものと思われます。鉢の大きさは、外部が幅150cm、高さ60cm、奥行64cm、内部の鉢の部分は幅126cm、深さ23cm、奥行40cmあります。
☆御拝殿と御本殿☆
☆御本殿☆
☆大鳥三社(大鳥連祖神)☆
☆狛犬様☆
本殿裏の末社大鳥三社にある狛犬で、腹の下がくりぬきになっていない珍しいものです。享保12年(1727年)「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたものです。
本殿裏の末社大鳥三社にある狛犬で、腹の下がくりぬきになっていない珍しいものです。享保12年(1727年)「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたものです。
☆胡桃下稲荷社☆
☆延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑☆
元治元年(1864年)に延命陀羅尼経を唱えたことを記念して建てられた記念碑で、神仏習合時代を物語る資料です。
元治元年(1864年)に延命陀羅尼経を唱えたことを記念して建てられた記念碑で、神仏習合時代を物語る資料です。
☆弁財天社☆
限定御朱印 『桜朱印』書置きのみ
桜が咲く季節の限定御朱印
3/15〜4/15迄頒布しています🌸
桜が咲く季節の限定御朱印
3/15〜4/15迄頒布しています🌸
欲しかった竜の御守
白もあったのですが、汚してしまいそうなので緑をいただきました🐲
社務所の横にスタンプが置いてあったので挟み紙に押してきました😊
白もあったのですが、汚してしまいそうなので緑をいただきました🐲
社務所の横にスタンプが置いてあったので挟み紙に押してきました😊
すてき
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malice 545投稿
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