あなはちまんぐう
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楽しみ方穴八幡宮のお参りの記録(3回目)
投稿日:2025年08月12日(火) 22時52分47秒
参拝:2024年12月吉日
早稲田に鎮座する穴八幡宮を訪れたのは、冬至の日の午後3時前。冬の澄んだ空気が張り詰め、吐く息が白く空に溶けていく。境内の前に近づくにつれ、通りには人の波が続き、その視線の先には御守の授与所があることが一目でわかる。穴八幡宮は古くから「一陽来復御守」で知られ、冬至から節分までの限られた期間しか授与されないこともあって、この日を待ち望んだ人々が徒歩圏内の地元中の地元から各地からまでの参拝者まで、全国から訪れているのかもしれない。
私が到着した時、すでに列の最後尾は北参道を少し馬場下町方面へ下った場所にあった。案内の看板や警備の人の指示に従い、その列に合流する。見ただけで、これは相当な待ち時間になると覚悟を決める。ざっと見積もって、およそ2時間はかかるだろう。周囲の人々は手袋やマフラーでしっかり防寒し、友人同士で談笑する人もいれば、一人静かにスマートフォンを操作する人もいる。
列に並び始めてから30分ほどは、ほとんど動きがなかったが、その後は少しずつ足が前に進む。やがて、北参道境内の鳥居が近づいてくると、空気が一層引き締まるような感覚を覚える。ほとんどの参拝者が一礼して境内へ。全体の動きを俯瞰すると、これはまるで年末年始の高速道路で見られる帰省ラッシュの車列のようだ。それでも、不思議なことに誰一人として文句を言わず、寒さと待ち時間を耐えながらも、皆の心は御守を手にする瞬間に向けられているのが分かる。
やっとの思いで境内へと足を踏み入れ、さらに曲がりくねったりをなん度も繰り返しながら進んだ先で「一陽来復御守」を授与していただく。所要時間は約2時間弱。予想よりも早く進んだ感覚。週末と重なった冬至を考えると上等上等。手にした瞬間、冷え切った手のひらに御守のぬくもりが伝わり、ようやく安堵の息が漏れる。冬至は一年のうちで最も昼が短く、翌日からは少しずつ日が長くなっていく節目の日。「一陽来復」という言葉には、厳しい時期を乗り越えて運が開ける、再び良い方向へ向かうという意味が込められている。そのため、この御守は商売繁盛や家内安全、金運上昇を願う人々に特に人気がある。
冬至当日の混雑ぶりを考えると、ほとんどの参拝者が手水舎での作法を省略しているのは自然なことだろう。実際、列が境内の外まで延びている状況では、手水舎に近づくことすら難しい。思えば、お隣の放生寺や各地の富士塚などに見られる、「特定の行為を行えば、実際にそこを巡ったのと同等のご利益がある」という考え方も、日本の信仰文化の中では珍しくない。こうした代替的な作法を、合理的な発想とみなすか、それとも非合理と考えるかは、人それぞれの価値観に委ねられるところだ。
私自身は、この日の手水舎省略は十分に許される範囲内だと感じている。長時間の行列、厳しい寒さ、そして何より御守を手にするために集まった人々の思いを前にすれば、形式よりも心の在り方が大切だと思えるからだ。参拝を終えて境内を後にするとき、冬至の夕空は群青色に染まり始め、遠くに街の灯りが瞬いていた。その光景は、まるで「一陽来復」の言葉が示すように、これから少しずつ訪れる明るい日々を静かに予感させているようだった。
私が到着した時、すでに列の最後尾は北参道を少し馬場下町方面へ下った場所にあった。案内の看板や警備の人の指示に従い、その列に合流する。見ただけで、これは相当な待ち時間になると覚悟を決める。ざっと見積もって、およそ2時間はかかるだろう。周囲の人々は手袋やマフラーでしっかり防寒し、友人同士で談笑する人もいれば、一人静かにスマートフォンを操作する人もいる。
列に並び始めてから30分ほどは、ほとんど動きがなかったが、その後は少しずつ足が前に進む。やがて、北参道境内の鳥居が近づいてくると、空気が一層引き締まるような感覚を覚える。ほとんどの参拝者が一礼して境内へ。全体の動きを俯瞰すると、これはまるで年末年始の高速道路で見られる帰省ラッシュの車列のようだ。それでも、不思議なことに誰一人として文句を言わず、寒さと待ち時間を耐えながらも、皆の心は御守を手にする瞬間に向けられているのが分かる。
やっとの思いで境内へと足を踏み入れ、さらに曲がりくねったりをなん度も繰り返しながら進んだ先で「一陽来復御守」を授与していただく。所要時間は約2時間弱。予想よりも早く進んだ感覚。週末と重なった冬至を考えると上等上等。手にした瞬間、冷え切った手のひらに御守のぬくもりが伝わり、ようやく安堵の息が漏れる。冬至は一年のうちで最も昼が短く、翌日からは少しずつ日が長くなっていく節目の日。「一陽来復」という言葉には、厳しい時期を乗り越えて運が開ける、再び良い方向へ向かうという意味が込められている。そのため、この御守は商売繁盛や家内安全、金運上昇を願う人々に特に人気がある。
冬至当日の混雑ぶりを考えると、ほとんどの参拝者が手水舎での作法を省略しているのは自然なことだろう。実際、列が境内の外まで延びている状況では、手水舎に近づくことすら難しい。思えば、お隣の放生寺や各地の富士塚などに見られる、「特定の行為を行えば、実際にそこを巡ったのと同等のご利益がある」という考え方も、日本の信仰文化の中では珍しくない。こうした代替的な作法を、合理的な発想とみなすか、それとも非合理と考えるかは、人それぞれの価値観に委ねられるところだ。
私自身は、この日の手水舎省略は十分に許される範囲内だと感じている。長時間の行列、厳しい寒さ、そして何より御守を手にするために集まった人々の思いを前にすれば、形式よりも心の在り方が大切だと思えるからだ。参拝を終えて境内を後にするとき、冬至の夕空は群青色に染まり始め、遠くに街の灯りが瞬いていた。その光景は、まるで「一陽来復」の言葉が示すように、これから少しずつ訪れる明るい日々を静かに予感させているようだった。
すてき
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ヒナメリ474投稿
鉄道(乗り鉄)とスポーツ観戦(野球、競輪、競馬、アメフト、ラグビー、など)が趣味で、その旅の中で風景印を集めています。そのついでに神社仏閣にも足を運んでいます。格式があるとされる神社から町や村の...もっと読む
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