浄土宗善光寺(山號南命山信州善光寺兼帶所)青山北町六丁目三十一番地
當寺は慶長六年の創立に係り、信州善光寺大本願上人の宿院にして、浄土宗の尼寺である。
善光寺第百九世大蓮社光忍圓譽智慶上人が、家康公に請願せられたるに、江戸谷中に於て七千五百坪の地を寄附されたので、始めて伽藍を建設した。今谷中に善光寺坂と呼ばれてゐる坂の邊がその舊地で、玉林寺の處に當る。
越えて元禄十六年十一月二十九日、小石川水戸邸から發した大火によつて焼失したが、寶永二年、心譽知善上人(享保十二年七月二十一日寂)が、現在の地に間口七十五間、奥行百間の地を賜り、新に堂宇を建營して、その十二月に移轉した。御朱印古跡拝領地七千五百坪、門前町屋千四百十坪、御朱印寺領五百石であつた。即ちこの心譽知善上人が中興開基である。降て文久二年十二月五日、また火災に遭て烏有に歸し、爾来久しく假本堂のまゝであつたが、大正四年九月再建の工を起し、同九年五月落成を告げたのが、現在の伽藍である。
當寺は元来無本寺であるが、舊幕時代には元文五年から東叡山の支配下に置かれた。
焼失以前の伽藍は、本堂(間口六間奥行き九間三尺)鎮守社(間口二間奥行九尺)拝殿(間口二間三尺奥行き二間)(阿紺稲荷、辨財天、秋葉大神を祀る)觀音堂(三間四方)釋迦堂(三間四方)地蔵堂(二間半四方)鍾樓、寮三ヶ所(一ハ間口二間半奥行二間一は間口三間半奥行四間一ハ間口四間奥行二間三尺)仁王門(間口三間三尺奥行二間三尺)。
仁王門は文久の火災にも難を免れたのであるが、この二王尊は靈驗著しいといふので、参詣祈願をこむる者多く、常に香煙繁く立昇つてゐる。毎月八の日が縁日であつて、往来殊に賑ひを呈する。
觀音堂は今も現存してゐるが、この觀音は、俗に榎觀音と呼ばれ、江戸名所圖會にも「堂内觀音百體を安ず。本尊は聖觀音にして、其丈二尺ばかりあり、惠心僧都の作なり。當寺むかし谷中にありし頃火災にかゝりし時、自ら火中の遁れ出給ひし靈像なりしといへり。故に字して火除觀音とも、又は火災の時榎に飛うつり給ひしにより、榎觀世音とも稱するといへり。」と記してゐる。
昔は門内に並木の櫻があつて、花の頃は一段景致の美を添へたもので、江戸咄にも「門の内並木の櫻有りて、花の比まふまでくる人は繪莚もうせんをしき島の道に心をよせてまつさへきる盃のめくる日影も西へかたふくをおしめり。」とある。
當寺はもと葬儀には一切關係しなかつたが、明治以後に至て墓地を設けることゝなり、現在は中御門經之、松木宗有、牧野晩香、勘解由小路光宙室中山能子等の墓があり、また中庭には芭蕉の句碑(山路来て何やら床しすみれ草の句、嘉永元年三月建立)がある。
なほ境内には、伯爵伊達宗基篆額、伯爵勝安芳撰文に係る高野長英之碑、及び明治の初年に人力車を發明した和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の三人を頌表する人力車發明記念碑が建立されてゐる。(「赤坂區史」より)
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