当神社の創祀された時は明らかではないが、当社に伝わる略記によると、清和天皇の御代の貞観年間(859〜876)には既に鎮座していたようである。
当社は、武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号とした。
その鎮座する社地は広大にして、社殿も広壮であったと伝えられる。社の四隣は森林や田畑に囲まれ、周辺には農家が散在する片田舎であったとされる。土地の人々は当社の森を「稲荷の森」と呼び、その森の一端に建てられていた里程標(一里塚)を「稲荷の森塚」と呼び習わしていた。この里程標は、後に明暦三年酉年(1657)正月八日の大地震により崩壊。当時の人々が散乱した石碑の破片を拾い集め、保存を図ったと伝えられる。左記は、その碑銘の写しである。
表:宮戸川邊り宇賀の池上に 立る一里塚より此福徳村 稲荷森塚迄一理
裏:貞観元年卯年 三つき吉祥日
また、そもそも当社は、元来、武将の信仰が厚く、源義家朝臣(1039〜1106)により深く崇敬されていたことが記されていたとも伝えられている。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっている。
徳川家康公は、江戸に入府した天正十八年(1590)八月に初めて当社に参詣し、その後も数度に渡って参詣している。更に二代将軍秀忠公は、慶長十九年(1614)正月八日に参詣した折、「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛。この時、当社の古例である椚(クヌギ)の皮付き鳥居に春の若芽の萌え出でたのを御覧になり、神社の別名を『芽吹(めぶき)稲荷』と名付けられた。元和五年(1619)二月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり、将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納し、更には「社地縄張を三百三十坪余り」と定められた。 |