真言宗豊山派武野山
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鎌倉街道散策(分倍河原〜東村山)1
『鎌倉街道』
中世時代に鎌倉から関東諸国をとおり信濃、越後、陸奥などの地方を結ぶ交通路で、鎌倉幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と馳せ参じた道であり、鎌倉時代から戦国時代までの関東武士の栄枯盛衰の歴史舞台でもある。
分倍河原からの「鎌倉街道」は、特に新田義貞や畠山重忠の物語に縁の寺社仏閣、古戦場が残っている。
【散策ルート】
①分倍河原〜②西国分寺(恋ヶ窪)〜③姿見の池〜④東福寺〜⑤恋ヶ窪熊野神社〜⑥厳島大弁財天〜⑦鎌倉橋〜⑧九道の辻〜⑨東村山八坂神社〜⑩平和塔公園
①分倍河原
『分倍河原の戦い』
1333年5月、多摩川沿いの分倍河原で、北条泰家(将軍高時の弟)率いる幕府軍と新田義貞率いる倒幕軍との間で起きた合戦で、新田軍が勝利し鎌倉幕府は倒壊した。
幕府は、小手指原、久米川での敗戦の知らせを受けて、泰家を大将とする10万の援軍を分倍河原へ派遣すると幕府軍は勢いづき、義貞は堀金(狭山市堀兼)まで撤退を強いられた。
この時、義家が追い討ちを掛けていれば義貞の首が取れたかもしれないが、義家は動かず唯一のチャンスを逃した。
その夜、相模国の軍勢を率いた三浦義勝が倒幕軍の援軍に入ると、翌朝、三浦一党が幕府軍を急襲。形勢は逆転して、南下した幕府軍は関戸(東京都多摩市)において壊滅状態になる。泰家は鎌倉へ逃げ帰るしかなかった。
②西国分寺(恋ヶ窪)
『恋ヶ窪伝説』
源頼朝に仕えた秩父の畠山重忠は、鎌倉街道の恋ヶ窪宿で遊女夙妻太夫と恋に落ちた。しかし、重忠は平家追討のため西国へ旅立つ。残された夙妻太夫は毎日忠重の身を案じて暮らしていた。
そんな中、夙妻太夫に思いを寄せる男が「重忠が戦いで討ち死にした」と嘘を告げると、夙妻太夫は悲しみにくれて「姿見の池」へ身投げしてしまった。夙妻太夫の死を哀れんだ村人が手厚く葬り墓印として松を植えると、その松は夙妻太夫の悲しみのためか一葉になっていました。(東福寺一葉松)その後、戻った重忠が夙妻太夫の死を知り、供養のために無量山道成寺(焼失)を建立して、阿弥陀如来立像を安置したほか、太夫の魂をなぐさめるため金仏様を造らせて太夫をとむらったと伝えられている。
金仏様は現在、府中市の善明寺にある。
③姿見の池
かつて付近の湧水が流れ込み清水を湛えていた池で、鎌倉街道の宿場町「恋ヶ窪」の遊女たちが朝な夕なに自らの姿を映して見ていたことにいわれている。
④東福寺
国分寺市西恋ヶ窪にある真言宗豊山派の寺院で武野山広源院と号します。本尊は大日如来。創建年代は不詳ながら、鎌倉時代初期の創建と伝えられ、戦国時代の享禄元年(1528年)に中興、宥雄が元和七年(1621年)に再中興したといいます。
正面の石段傍らには「傾城墓」「傾城墓由来」など一葉松の恋ヶ窪伝説に因む石碑類が佇んでいます。

①新田義貞像
分倍河原駅ロータリーに鎌倉を向いて立っている。

①分倍河原古戦場碑
府中市分梅町に「分倍河原古戦場碑」があるだけで、鎌倉幕府を倒すほどの合戦があった場所とは思えない静かな新田川緑道がある。
境内・文化財
境内・文化財をもっと見る|廣源院東福寺の基本情報
| 名称 | 廣源院東福寺 |
|---|---|
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 電話番号 | 042-321-1046(代) お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| ホームページ | https://www.tofukuji.tokyo/guide |
巡礼の詳細情報
| 多摩四国八十八箇所 第28番 | 仏さま:大日如来 |
|---|
詳細情報
| ご本尊 | 大日如来像 |
|---|---|
| 山号 | 武野山 |
| 院号 | 広源院 |
| 宗旨・宗派 | 真言宗豊山派 |
| 創建時代 | 鎌倉時代初期頃 |
| 体験 |
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