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楽しみ方東覚寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年07月07日(月) 21時01分11秒
参拝:2025年7月吉日
JR田端駅近くに仕事で行き立ち寄り参拝🙏
田端駅徒歩15分ほど🚶
赤紙仁王が名所らしいのですが、境内にある大日如来像や阿弥陀如来像、弘法大師像などとても見応えありつい長居してしまいました。
御朱印も対応しているようです。
先に参拝し投稿した田端八幡神社の隣にあります。
田端駅徒歩15分ほど🚶
赤紙仁王が名所らしいのですが、境内にある大日如来像や阿弥陀如来像、弘法大師像などとても見応えありつい長居してしまいました。
御朱印も対応しているようです。
先に参拝し投稿した田端八幡神社の隣にあります。

大日如来

拝殿


赤紙仁王尊
石仏仁王の背銘に「施主道知宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれている。
西暦一六四一年より露仏で立っていることになる。
仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として山門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(悪魔を焼徐する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代りと心身安穏を願うようになった。
右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の味像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即ち「静」を表している。
阿吽の姿は密教で説く胎蔵界、金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終りを表している。
阿像から味像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉納する。
祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。
石仏仁王の背銘に「施主道知宗海上人東岳寺賢盛代、寛永十八辛巳天八月廿一日」と刻まれている。
西暦一六四一年より露仏で立っていることになる。
仁王は、本来清浄な寺院の境内を悪から守る金剛力士として山門の両側に立ち、仏法僧の三宝を守護するものであるが、この赤紙仁王は当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宗海上人が願主となって建立されたもので、いつのころからか赤紙(悪魔を焼徐する火の色)を自分の患部と同じ箇所に貼って病気身代りと心身安穏を願うようになった。
右の阿像は口を大きく開けて息を吸い込んでいる状態即ち「動」を表し、左の味像は口をしっかりと結んで息を止めている状態即ち「静」を表している。
阿吽の姿は密教で説く胎蔵界、金剛界の二界を表し、又宇宙一切のものの始めと終りを表している。
阿像から味像へと祈願し、満願のあかつきにはお礼として草鞋を奉納する。
祈願者、病人を見舞うため日夜歩かれるのでさぞかし草鞋が必要であろうという思いやりからである。


東京都北区指定有形民俗交化財
赤紙仁王(石造金剛力士立像)
参詣客が赤色の紙を貼るため“赤紙仁王”の名で呼ばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願望となって選望されたことが分かります。
一説によれば、当時は江戸市中で渡病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。
参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ箇所に赤紙を貼るのが慣わしです。
また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。
ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健康や健康をかなえる車格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。
なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。
そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。
なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。
しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。
また、平成20年10月には、道路拡張工事のために従来の位置から約7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢を見つめてゆくことになりました。
赤紙仁王(石造金剛力士立像)
参詣客が赤色の紙を貼るため“赤紙仁王”の名で呼ばれるようになった東覚寺の金剛力士立像は、形像の背面にある銘文から、寛永18年(1641)8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願望となって選望されたことが分かります。
一説によれば、当時は江戸市中で渡病が流行しており、宗海は、これを鎮めるために造立したのだそうです。
参詣客が赤紙を貼る理由は、そのようにして祈願すれば病気が治ると信じられてきたからで、具合の悪い部位と同じ箇所に赤紙を貼るのが慣わしです。
また、祈願成就の際には草鞋を奉納すべしとされています。
ただし、赤紙仁王に固有のこうした習俗が発達したのは明治時代のことで、その背後には、仁王像を健康や健康をかなえる車格とみなす庶民独自の信仰があったと考えられます。
なぜなら、かつて日本各地には病気平癒を祈願して行う類似の習俗があったからです。
そのため、赤紙仁王は、文化形成における庶民の主体性や独自性を強く表現した作品でもあるのです。
なお、赤紙仁王は、江戸時代の末までは田端村の鎮守である八幡神社の門前にありました(左図)。
しかし、明治初期の神仏分離を機に、かつて東覚寺にあった九品仏堂の前に移され、以後はそこで人びとのお参りをうけてきました。
また、平成20年10月には、道路拡張工事のために従来の位置から約7メートル後方に移動し、平成21年8月に竣工した新たな護摩堂とともに、今後の世の趨勢を見つめてゆくことになりました。

不動明王碑


六地蔵

山門

弘法大師

阿弥陀如来







すてき
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ちよは101投稿
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