この石神井・氷川神社は石神井の郷の総鎮守社です。現在の町名では、石神井台から石神井町、上石神井、下石神井、立野町までを含む全域の鎮守(守り神)です。かつてはこの地域は、谷原・田中・上石神井・下石神井・関、の五つの村からなっていました。本社はその各村民より、長きに渡りあつい崇敬を受けてきた神社なのです。今日なお、一般に「石神井のお氷川さま」と呼ばれ、親しまれています。氷川神社が石神井郷の総鎮守であったことは、『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』などの諸本に、その社名が明記されていることからもわかります。また現存する御手洗い鉢(社殿の西側、末社の前にある石造りの鉢)にも、「石神井郷鎮守社」と刻まれています。
神社の創建は、古く室町時代にさかのぼります。社伝によれば本社は、室町時代の応永年間(1394-1428)に、このあたりに勢力の大きかった豊嶋氏がこの地を護る石神井城の中に、城の守護神として祀ったのが創まりです。武蔵国一ノ宮である大宮の氷川神社から御分霊を奉斎したのです。当時の豊嶋氏が治める領地の中心は、現在の池袋から豊島園遊園地のあたりであったと伝えられており(現在の「豊島区」という地名は豊嶋氏に由来するものです)、石神井城はその領地の西方を護る砦でありました。また同時に豊かにして貴重な水源地である、石神井池(現在の三宝寺池)を護る意図もあったと伝えられています。
しかして、やがて豊嶋氏は太田道灌に攻められ、善戦するもその甲斐なく退却を強いられました。そして遂に文明九年(1477)四月十八日、道灌により石神井城が攻略され、城主・豊嶋泰経とその息女・照姫は池に身を投げて自害されたといわれています。石神井城落城とともに、栄華を誇った豊嶋氏は勢力を失ってしまいました。豊嶋氏滅亡の悲劇は、今でも「黄金の鞍と照姫の伝説」として語り継がれています。
石神井城落城後も氷川神社に対する村民の尊崇は篤く、鎮守の神として仰がれて現在に至っています。また、江戸時代の元禄年間には豊嶋氏の子孫、豊嶋泰盈・泰音により石燈籠一対が奉納されています。豊嶋一族が本社を篤く崇敬していた証しとも言えましょう。明治五年十一月に村社に列せられ、同七年四月に郷社に社格が昇格されました。
社殿は本殿・拝殿ともに流れ造りです。拝殿は明治三十四年九月の落成。本殿は文政年間の建立と推測されるものでありましたが、老朽化が著しく、平成元年から行われた境内整備事業により、社務所・幣殿とともに改修されました。平成四年に新社殿が竣工し、同年九月には本殿遷座祭が約百五十年ぶりに行われ、輝くばかりの新築に御神徳を一段と深くしました。
社殿に向かい右手にある神楽殿は、昭和十二年の建立です。その流麗な美しい姿は、都内の神楽殿の中でも特筆されるものです。また昭和四十三年には、明治維新百周年を記念して境内末社の修造、石玉垣の改修が行われています。
二千余坪の広い境内には木々が生い茂っています。隣接する石神井公園とともに、本社境内周辺は早くから東京都の風致地区・禁猟区に指定されてきました。特に三宝寺池の沼沢植物群落は、天然記念物に指定されています。鎮守の森には多くの鳥類・昆虫類等が棲息しており、訪れる人は誰でも往昔の「武蔵野」の面影に触れることができるでしょう。 |