なかいしゅっせふどうどう
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中井出世不動堂ではいただけません
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中井出世不動堂のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年07月15日(月)
参拝:2024年7月吉日
令和6年7月15日海の日🎌『先負』『天恩日』✨✨
自宅近くの寺社参拝①
ホトカミのマップで検索しても出て来なかったので初投稿?(もし、あったらごめんなさい🙇)
本堂の中は、毎月28日の午後1時~3時に御開帳(休止の場合あり)するとの事だったのでご開帳の時にじっくり参拝させていただきます🤔
本尊不動明王と眷属の矜羯羅、制咤迦の二童子で、江戸時代に全国を旅して12万体に及ぶ鉈彫りの仏像を彫ったという天台宗の僧侶円空(1632 ~ 95)の作である。
製作年は不明であるが台座裏の銘文から、3体とも尾張国一宮(現愛知県一宮市)の真清田神社の神宮寺(別当寺)般若院に安置されていたが、何らかの理由で、二童子は文化13年(1816)、明王は文政2年(1819)に中井の地に移されたことがわかる。二童子の供をして江戸に下った人物や台座を寄進した人物の名も記されており、それにより台座は中井に移されてから製作されたことがわかる。光背や彩色も後補であろう。
中井では不動院に安置されていたが、明治維新後廃寺となったため村人の手で守られ、大正3年(1914)に不動堂を建て、一心出世不動として信仰された。現在は円空作中井出世不動尊保存講により管理され、昭和44年(1969)には不動堂が再興された。
三尊の台座にはそれぞれ次のような銘文が記されており、来歴等を知る上で貴重な史料である。
不動明王像「文政二卯年六月十七日御着尾張国中島郡 一宮神宮寺 同十二月二日出来 般若院峯重 四つ谷 吉見作」「奉不動明王兩(ママ)興 大正十五年十月 大仏師北豊岩淵町 狩野健次弘信」
矜羯羅童子像「尾州中島郡松降野荘青桃丘 一宮真清田大神宮別当 神宮寺般若院 文化十三年六月十一日御着 東海道 御供 杉山平馬 古川喜十郎」
制咤迦童子像「不動院 勇山 兩岩 武州豊島郡下落合村台 御霊神社 文政四辛巳年 極月出來音羽町七丁目 西村藤吉作之」
(© 温故知しん!じゅく散歩 新宿文化観光資源案内サイトより抜粋)
自宅近くの寺社参拝①
ホトカミのマップで検索しても出て来なかったので初投稿?(もし、あったらごめんなさい🙇)
本堂の中は、毎月28日の午後1時~3時に御開帳(休止の場合あり)するとの事だったのでご開帳の時にじっくり参拝させていただきます🤔
本尊不動明王と眷属の矜羯羅、制咤迦の二童子で、江戸時代に全国を旅して12万体に及ぶ鉈彫りの仏像を彫ったという天台宗の僧侶円空(1632 ~ 95)の作である。
製作年は不明であるが台座裏の銘文から、3体とも尾張国一宮(現愛知県一宮市)の真清田神社の神宮寺(別当寺)般若院に安置されていたが、何らかの理由で、二童子は文化13年(1816)、明王は文政2年(1819)に中井の地に移されたことがわかる。二童子の供をして江戸に下った人物や台座を寄進した人物の名も記されており、それにより台座は中井に移されてから製作されたことがわかる。光背や彩色も後補であろう。
中井では不動院に安置されていたが、明治維新後廃寺となったため村人の手で守られ、大正3年(1914)に不動堂を建て、一心出世不動として信仰された。現在は円空作中井出世不動尊保存講により管理され、昭和44年(1969)には不動堂が再興された。
三尊の台座にはそれぞれ次のような銘文が記されており、来歴等を知る上で貴重な史料である。
不動明王像「文政二卯年六月十七日御着尾張国中島郡 一宮神宮寺 同十二月二日出来 般若院峯重 四つ谷 吉見作」「奉不動明王兩(ママ)興 大正十五年十月 大仏師北豊岩淵町 狩野健次弘信」
矜羯羅童子像「尾州中島郡松降野荘青桃丘 一宮真清田大神宮別当 神宮寺般若院 文化十三年六月十一日御着 東海道 御供 杉山平馬 古川喜十郎」
制咤迦童子像「不動院 勇山 兩岩 武州豊島郡下落合村台 御霊神社 文政四辛巳年 極月出來音羽町七丁目 西村藤吉作之」
(© 温故知しん!じゅく散歩 新宿文化観光資源案内サイトより抜粋)
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