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おおたひめいなりじんじゃ

太田姫稲荷神社の御由緒・歴史
東京都 新御茶ノ水駅

ご祭神《主》宇迦之御魂神,《配》菅原道真,徳川家康
創建時代長禄元年(1457)
ご由緒

太田姫稲荷神社は、極めて豊かな霊験伝承と、古い由緒をもつ神社であります。
「駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀に始まります。
詩才を白楽天に比されるほどの詩人参議小野篁(おののたかむら)が承和六年はじめ伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく海が大そう荒れ狂い身の危険を感じたため、篁は正装をして船の舳に座り熱心に普門品(ふもんぼん=観音経)を唱えていると、白髪の老翁が波上に現れて「荒波から命を守つやるが疱瘡(天然痘=大流行し治療法がなく非常に恐れられていた)を患えば一命が危ない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつれば、この病にかかる事はないであろう」と告げ波間に姿を消した。そのお告げを護り自ら翁の像を刻み、護持していた。後に山城国(京都府)の南にある一口の里に神社を祝い祭った。
江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)の最愛の姫君が思い疱瘡にかかり絶望の中、人伝に一口稲荷神社の故事を聞き急使をつかわせ祈願。使者は祈祷の一枝と幣を授かり帰ると、十直の病が癒えた資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立し姫君と共に深く敬拝した。ある時この城の鬼門を守るべしとの神託があり、鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。長禄元年(1457年)のことである。
慶長八年(1603)八月、徳川家康公が江戸城へ入られた後、慶長十一年の江戸城大改築の際、城内より西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側に移されこの坂を一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷が出来たので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後代々将軍が崇拝し、修理造営は徳川家が行ったと伝えられている。
明治五年(1872)神社制度により神職司掌とする。
例祭日は毎年四月十八日と定められ、後に五月第二土曜日となる。
大正十二年(1923)関東大震災で類焼、御神体のみ無事に湯島天神に避難する。
大正十四年(1925)仮社殿が落成。
昭和三年(1928)氏子各位の寄進により、本社殿、神楽殿、御水舎、神輿庫、社務所、鳥居等新築される。
昭和六年(1931)御茶ノ水駅、両国駅間の総武線建設のため社地大半を収用され鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定。一切の建築物をそのまま移転して今日に至る。

歴史
歴史[編集] 社伝によると、室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都東一口の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457年)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。 徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606年)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとり(南側・右岸)(現在の東京都千代田区神田駿河台四丁目、後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。...Wikipediaで続きを読む
引用元情報太田姫稲荷神社」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%A7%AB%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=101187031

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