明治三十八年冬他界した妻の言葉で「父が以前行った事のある所に宝財として土地を求めよ」に従いそこを訪れたところ昔はその栄を物語るも手入れもされず、樹木でおい茂り、中央に池がある荒れ果てた土地があった。
あまりにもひどくあきめんとしたが去るには地相が如何にも捨て難く、購入し地盛り古い池の埋立をしたところ、年を越したころには緑が茂るようになった。
この土地の北隅の樹木の小陰に所があり、塵埃をはらい四辺を清め、心からのお祠りをし永世の奉りを誓った。その夜枕辺に稲荷の主神咲栃の神がおたちになり、静かな声で「忠よ汝は善く我安居を清めてくれました、その厚き志に感謝し貯財の道を教えましょう。北半里を出ない中に水田があり土地を求めなさい。
そこの地を開けば多くの人がここに居を求め人の為、又家族の為にもなり無上の幸福があなたに訪れるでしょう」の言葉を言い残し幻の如く闇に消えました。
その声、裳の姿、畳障子の音までも私の目、耳底にのこり夢と思うも夢でなくその夜は眠ることもできずに夜を明かした。翌年三十九年にそのお告げの通り今の地に咲栃の神をお祠りしたところ多くの方が今日居をかまえられた。
その土地こそが、現在のこの地である。
それ以来大正十二年九月一日の大震災又戦災も逃れ、咲栃の神の言に従って開かれた土地は栄え家々は日に日に盛運に進みその神徳に感謝してもしきれないものである。
原忠三郎 謹書より
以後、今にいたるまで「財のたまる」「幸のたまる」「難を逃れる」田丸神社としてあがめられている。 |