かめいどせんげんじんじゃ
亀戸浅間神社のお参りの記録一覧
下町神社巡り④野暮用を済ました後、午後最初の神社。
日本武尊が東夷ご征討の折、相模から上総へ船で向うとき「日本武尊の身代わりに自らの身を海に投じました。すると暴風はたちどころに止み、船は無事、岸に着くことができました。後に、弟橘姫の笄(こうがい)と櫛(くし)が奥湾に漂着し、そのうち
笄が現在の亀戸九丁目付近に漂着。これをお聞きになった十二代景行天皇は大層愁いて、ここに笄を埋め、祠を立てて祀りました。その後、室町時代にこの塚の上に浅間神社を建立されたものです。現在の社殿は東京大空襲にも焼失せずに残ったものです。
駐車場は月極で、社務所に伺い適当な場所に停めさせていただき参拝しました。丁度6年ぶりのお祭りの準備でお神輿を手入れしているところに遭遇。近くで拝見させていただきました。
鳥居
社号標
由緒書
手水舎
手水鉢
境内社鳥居
境内社 稲荷神社 御祭神:宇迦之御魂神
境内社 下浅間神社 御祭神:大黒様、恵比寿様
拝殿
扁額
本殿
狛犬
天水桶
笄塚
神輿 幕末頃の制作と云われています
亀戸浅間神社へ夏詣…🙏⛩️
大きさは関東随一の茅の輪をくぐりに……と着いたら撤去の真っ最中😮残念…😞😆
午前中から茹だる中氏子さん達とジャージで作業中だった宮司さんに授与品の事伺ったら快く応じて下さり、御朱印お書き入れ頂きました。
夏詣…🗻
例大祭の準備かな…?
弟橘姫尊の笄守。何かとても惹かれてて…お受けいたしました☺️
夏詣限定御朱印(書置き)
関東一の大茅の輪をくぐって来ました。365日にあやかって3M65センチあるようですね。境内は七夕飾りが賑やかです。
茅の輪部分は切り絵になってます。
関東一の大茅の輪をくぐって来ました。
境内は七夕飾りが賑やか。
七夕に願いを込めて。
社伝によれば大永七年(1527)に創建されました。
祭神は木花咲耶比売命です。もともとこの辺りの地は高貝洲と呼ばれていました。これは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄が亀戸浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによるものです。のちに景行天皇(第十二代と伝えられる)がその地に笄塚を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めました(境内「亀戸の富士塚
本殿は安政二年(1855)の江戸大地震、大正十二年(1923)の関東大震災で被災しました。現在の本殿は昭和初年に建立されたもので、平成十年(1998)の大島・亀戸・小松川防災再開発事業にともなって、今の位置に移動しています。境内には亀戸の富士塚や享和元年(1801)在銘の富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道道標(いずれも区指定有形文化財)など数多くの文化財が残されています。
手水舎
拝殿
拝殿
拝殿
本殿
六目地蔵尊
六目地蔵尊
授与所
右側が社務所になっています
神輿庫
亀戸浅間神社は、社伝によれば大永七年(1527)に創建されました。祭神は木花咲耶比売命です。もともとこの辺りの地は高貝洲と呼ばれていました。これは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄が亀戸浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによるものです。のちに景行天皇(第十二代と伝えられる)がその地に笄塚を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めました(境内「亀戸の富士塚」文化財説明板を参照)。
本殿は安政二年(1855)の江戸大地震、大正十二年(1923)の関東大震災で被災しました。現在の本殿は昭和初年に建立されたもので、平成十年(1998)の大島・亀戸・小松川防災再開発事業にともなって、今の位置に移動しています。境内には亀戸の富士塚や享和元年(1801)在銘の富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道道標(いずれも区指定有形文化財)など数多くの文化財が残されています。また、かつて神社境内のそばを通っていた城東電気軌道の線路も残され、関東最大の茅の輪を作る(茅の輪くぐり)神事が年二回行われるなど、亀戸東部地域の歴史や民俗を伝える鎮守として、人々の信仰をあつめています。
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