真言宗智山派福聚山
普門院のお参りの記録一覧
東京都江東区亀戸に位置する普門院(ふもんいん)は、真言宗智山派の寺院で、山号は福聚山善應寺です。1552年に橋場で創建され、その後1616年に現在の地に移転しました。普門院は亀戸七福神の一つ、毘沙門天を祀る寺としても知られています。
●創建と移転のエピソード
普門院の創建は大永2年(1522年)にさかのぼり、開基である千葉自胤の城中に設立されました。当初の本尊は聖観音で、千葉自胤の家臣である佐田善次盛光が冤罪によって命の危機に直面した際、観音の霊力によって救われたという伝説があります。この出来事が寺の建立のきっかけとなりました。
1616年、普門院は隅田川を挟んだ新しい土地に移転しましたが、その際に梵鐘を運ぶ途中で川に落としてしまい、その地が「鐘ヶ淵」と呼ばれるようになったという伝承があります。このエピソードは、普門院の歴史の中でも特に語り継がれています。
●文化財と地域の信仰
普門院には数多くの文化財があります。特に注目すべきは、伊藤左千夫や大島伯鶴の歌碑です。また、応永の石灯籠や古筆了意の碑、木食の碑なども存在します。普門院は慶安2年(1649年)に徳川家光から5石の朱印を拝領し、御朱印寺としても知られています。
普門院は江東区亀戸にある真言宗智山派の寺院で、福聚山善應寺と号します。本尊は大日如来で、亀戸七福神のひとつ毘沙門天としても親しまれています。1552年橋場に創建、元和2年(1616)当地へ移転したといいます。当地に移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承を持ちます。伊藤左千夫墓や大島伯鶴の歌碑など数多くの文化財があります。
JR亀戸駅から徒歩10分の場所にあり、途中には亀戸梅屋敷や亀戸香取神社の参道かありました。以前に寄った事もあり、立ち寄りせずに普門院へ直行。
鬱蒼とした境内の石碑や文化財は草木で覆われ、藪蚊との戦いに負け右腕が痒い。本堂は改修中でした。
御朱印は住職の説教を聴きながら、庫裡にていただきました。
御府内八十八ヶ所霊場40番札所。
山門
伊藤左千夫墓石
大島伯鶴歌碑
寺号石標柱
観音像
本堂
御朱印
御府内八十八カ所の巡礼でお参りしました。四十番の札所です。亀戸七福神の毘沙門天もあります。
事前にネットで調べたところでは、境内の様子を相当に厳しい表現で書いている方がいました。確かに、足を運んでみると、住宅街の中でこの一角だけ木々がうっそうと生い茂り、知らなければ足を踏み入れるのを躊躇しそうな雰囲気があります。ただ、訪ねたのはお彼岸の時期で、墓参の檀家とおぼしき方々がひっきりなしに行き来していて、あまり不安は感じませんでした。
本堂の前でお経をあげた後、庫裏で御朱印をお願いしました。書き置きでしたが、年配の女性の方に丁寧に応対していただきました。ちなみに御府内八十八カ所の霊場は、ご住職とご家族だけのお寺も少なくなく、書き置きの御朱印は珍しくありません。大型サイズの専用御朱印帳用です。
正式名:福聚山善應寺普門院
東京都江東区亀戸にある真言宗智山派の寺院で、亀戸七福神のうち毘沙門天を祀る。
大永2年(1522)武蔵国豊島郡三原にあった開基とされる千葉自胤の城中に創建された。創建時の本尊は聖観音で、千葉自胤の家臣佐田善次盛光が冤罪によって斬罪に処されるところ、日頃の信心によって、この観音に身を救われたことから、千葉自胤が感じ入り寺院を建立したという。
後に年代不詳ながら別に堂が建てられ、元和2年(1622)に現在の土地に移った。その際、船で釣鐘を運ぼうとしたところ、誤って隅田川に落としてしまい、これを引き上げることはできなかった。これが鐘ヶ淵の地名の由来となっている。
慶安2年(1649)には徳川家光が立ち寄った際、5石の朱印状を拝領した。
安永年間(1772~1781)には栄範上人によって本尊が聖観音から大日如来に改められた。また、江戸期には葛飾区青戸にある「薬王山真頂寺宝持院」の末寺であった。
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