まつざかいなりだいみょうじん
松坂稲荷大明神のお参りの記録一覧
松坂稲荷大明神は、「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。
「兼春稲荷」は、徳川氏が江戸に入国した後に松坂町に御竹蔵を設置した際、その水門内に鎮座していました。元禄15年(1702年)の赤穂浪士による討入り事件の後、吉良邸跡に地所を清めるために遷官され、その後、昭和10年(1935年)に既存の「上野稲荷」と合祀されました。この合祀に伴い、松坂稲荷は本所松坂町公園内に遷座され、現在の形となりました。
本日の目的地です。吉良邸跡地が本所松坂公園となっており、その中に鎮座しています。明日が討ち入りの日ですが、大勢人がいたら嫌なので、前日に伺いました。それでもチラホラと参拝、見学者がいらっしゃいました。忠臣蔵では悪人として描かれていますが、実際は良い領主だったようです。吉良の領地も゙塩の産地で、塩の商いのシェア争いの一面もあったとか、無かったとか!色々考えるのも楽しいものです。本来の吉良邸は2550坪と広大でしたが、昭和9年(1934)に地元両国三丁目町会有志が発起人となって邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入、同年3月の東京都に寄付されたものなので、本当に狭くしか残っていません。邸は無く、」空間で塀沿いに展j物や吉良像、神社があります。神社は討入り後、地所清めの為遷座した兼春稲荷が元で、昭和10年(1935)に上野稲荷が合祀されたものです。当然、御祭神には吉良上野介が名前を連ねています。
両国橋から見える東京スカイツリー
外観(なまこ塀で囲われています)
赤穂義士遺跡 吉良邸跡
入口
鳥居
吉良家家臣二十士慰霊碑
みしるし洗いの井戸
吉良上野介像(華蔵寺吉良像を模して造られたものです)
吉良邸内図
「松坂稲荷」は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したもの。「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸へ地所清めのために遷宮され、昭和10年に現存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園開園とともに当所に遷座された。
~墨田区文化観光協会の説明より抜粋~
本所松坂町公園の一角に鎮座されています。公園は忠臣蔵で有名な赤穂浪士討入りがあった、吉良上野介義央の上屋敷跡である。
公園の写真が多くなりますが、暫しお付き合い下さい。
吉良上野介義央公
案内板
首洗い井戸
両国駅近く、本所松坂町公園内の神社です。
この公園は赤穂義士の討ち入りがあった吉良上野介義央の上屋敷跡の一部です。「忠臣蔵」の元としておなじみの事件現場でした。
地元有志の方がこの地を買い取り、公園化したそうです。
詳細は掲示されていた由来写真をアップしましたのでご覧ください。
公園はとても綺麗にお手入れされていて、お参りする人もそれなりに多く、丁寧に作られたリーフレットには「町の人は今でも『吉良様』と呼んでいる」と記載されているなど 地域の方が吉良上野介公を慕っている様子がよく分かりました。
本所松坂町公園
本所松坂町公園由来
なまこ壁に囲まれた公園は旧吉良上野介邸の一部です
赤穂義士遺蹟 吉良邸跡碑と幟
壁には資料や絵が飾られています
吉良上野介義央公像
みしるし洗い井戸
みしるし洗い井戸
吉良邸跡について
吉良家家臣二十士碑
吉良上野介追慕碑
松坂稲荷大明神
「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀
御祭神
松坂稲荷大明神由来
正門の左手に神社への通用口があります
綺麗なリーフレットがありました
中はカラーで丁寧に作られています
地元の方から吉良上野介公への愛を感じました
赤穂浪士が主君の仇を討つ「忠臣蔵」で、討たれた吉良上野介の屋敷跡の一部は現在、東京都墨田区両国の「本所松坂町公園」として保存されています。討ち入りが行われた12月14日から翌15日にかけては、一帯で義士祭、吉良祭、そして元禄市が開かれるというので訪ねてみました。
屋敷跡には上野介の像のほか、やはり吉良家の地元ということか、討ち入りで落命した吉良家の家臣20人の名前も碑に刻まれ、顕彰されています。
いただいたパンフレットによると、邸内にある「松坂稲荷」は「徳川氏入国後、水門内に鎮座された『兼春稲荷』と、古くこの地に祀られていた『上野稲荷』の二社を合祀し、昭和十年当所に遷座されたものです」とのことです。
JR総武線の両国駅から徒歩で5、6分ほど。元禄市は大勢の人でにぎわっていました。
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