かくごいなりじんじゃ
靍護稲荷神社の編集履歴
ご由緒
(靍護稲荷神社由来記の看板より)
もともと靍護稲荷神社は今から185年余りの昔、文化12年(1815年)2月の午の日山城伏見(現 京都府)の本宮に願い出て、江戸の根岸(現 荒川区東日暮里)の里に建てられたものです。それ以来、当時の江戸市民の深い信仰をあつめて今日に至っています。
明治14年(1881年) 1 月の或る夜、神守の老爺が神殿付近で白狐を認め、その場所を調べたところ一巻の掛軸が残されているのを発見しました。怪しく思いその掛軸をひもといてみると、豊川稲荷大明神の尊像でしたので即座にその旨を松坂屋いとう呉服店(当時)の店主に告げ、神璽と共に社殿に奉祀して、今日に至ると伝わっています。
この靍護稲荷神社は火防の神として、世々付近の住民の難を救ったことが数々
あると伝わっています。ことに大正14年(1925年)3月の日暮里大火の際は、付近が
既に危うく見えましたが、霊験あらたかにも神域、社殿無事に焼失をまのがれ
ましたことが、付近住民の記憶に残っていると聞き及んでいます。
この本館屋上にある靍護稲荷神社は、昭和4年(1929年)上野松坂屋の竣エの際、開店に先立ち2月18日二の午の吉辰を占い、王子神社社司に願い、東日暮里にある靍護稲荷神社の神璽を分霊したもので、地上30メートル超の本館屋上に奉安、遷座の式を行い、以来今日に至っています。
編集前:(靍護稲荷神社由来記の看板より)
もともと靍護稲荷神社は今から185年余りの昔、文化12年(1815年)2月の午の日山城伏見(現 京都府)の本宮に願い出て、江戸の根岸(現 荒川区東日暮里)の里に建てられたものです。それ以来、当時の江戸市民の深い信仰をあつめて今日に至っています。
明治14年(1881年) 1 月の或る夜、神守の老爺が神殿付近で白狐を認め、その場所を調べたところ一巻の掛軸が残されているのを発見しました。怪しく思いその掛軸をひもといてみると、豊川稲荷大明神の尊像でしたので即座にその旨を松坂屋いとう呉服店(当時)の店主に告げ、神璽と共に社殿に奉祀して、今日に至ると伝わっています。
この靍護稲荷神社は火防の神として、世々付近の住民の難を救ったことが数々
あると伝わっています。ことに大正14年(1925年)3月の日暮里大火の際は、付近が
既に危うく見えましたが、霊験あらたかにも神域、社殿無事に焼失をまのがれ
ましたことが、付近住民の記憶に残っていると聞き及んでいます。
この本館屋上にある靍護稲荷神社は、昭和4年(1929年)上野松坂屋の竣エの際、開店に先立ち2月18日二の午の吉辰を占い、王子神社社司に願い、東日暮里にある靍護稲荷神社の神璽を分霊したもので、地上30メートル超の本館屋上に奉安、遷座の式を行い、以来今日に至っています。