ゆうてんじ
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楽しみ方祐天寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年10月10日(金) 16時38分28秒
参拝:2025年10月吉日
祐天寺での作業前に立ち寄りました🙏
東急東横線・祐天寺駅徒歩10分🚶
祐天寺(浄土宗)
中目黒5-24-53
祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。
当時新しい寺院の建立は雑府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。
以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
本堂には、「木造祐天上人像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋石見の名作です(都指定文化財)。
また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
本寺所蔵の「般若心経」1巻、「和紙金学法華経巻第三』1巻(とるに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
なお、境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家宜夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
墓地には、「祐天上人の墓」(都旧跡指定)や柳原愛子(大正天皇生母)の墓等の各墓及び「白子組並びに灘目の海難供養碑」(ともに区指定文化財)などがあります。
平成3年3月
目黒区教育委員会
東急東横線・祐天寺駅徒歩10分🚶
祐天寺(浄土宗)
中目黒5-24-53
祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。
当時新しい寺院の建立は雑府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。
以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
本堂には、「木造祐天上人像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋石見の名作です(都指定文化財)。
また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
本寺所蔵の「般若心経」1巻、「和紙金学法華経巻第三』1巻(とるに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
なお、境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家宜夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
墓地には、「祐天上人の墓」(都旧跡指定)や柳原愛子(大正天皇生母)の墓等の各墓及び「白子組並びに灘目の海難供養碑」(ともに区指定文化財)などがあります。
平成3年3月
目黒区教育委員会

本堂前の掲示板にチ。-地球の運動について-のヨレンタさんの言葉が書かれていました

表門

表門

地蔵堂門

地蔵堂

仁王門
目黒区指定有形文化財(建造物)
昭和55年2月12日指定
中目黒5-24
この仁王門は仁王像とともに、享保20年(1735)の建立で、五代将軍綱吉の息女付姫が寄進されたものです。
精等8.5m(28尺)楽間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造本瓦茸型銅板茸(昭和6年葺よりふきかえ)円柱は欅材です。
正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が考選され、ともに運度の作と伝えられています。
また、中央間の内側には正面に麒麟背面に海馬の二獣神を配しています。
なお、頭貴上の股には十二支が彫られ、方位を示しています。
各虹楽、木婦、肘木、股に施された渦紋、若葉紋の膨りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。
平成5年3月
目黑区教育委員会
目黒区指定有形文化財(建造物)
昭和55年2月12日指定
中目黒5-24
この仁王門は仁王像とともに、享保20年(1735)の建立で、五代将軍綱吉の息女付姫が寄進されたものです。
精等8.5m(28尺)楽間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造本瓦茸型銅板茸(昭和6年葺よりふきかえ)円柱は欅材です。
正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が考選され、ともに運度の作と伝えられています。
また、中央間の内側には正面に麒麟背面に海馬の二獣神を配しています。
なお、頭貴上の股には十二支が彫られ、方位を示しています。
各虹楽、木婦、肘木、股に施された渦紋、若葉紋の膨りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。
平成5年3月
目黑区教育委員会


阿弥陀堂
目黒区指定有形文化財(建造物)
平成5年6月29日指定
阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱書の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。
同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。
各棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり頼度の高いものです。
また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行なわれたにもかかわらず、回祿や倒壊などによる根本的な再造営は、行なわれなかったものと考えられます。
祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして王門とともに重要なものです。
特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。
〔注)回祿とは火の神のこと。転じて火災のこと。
平成7年3月
目黒区教育委員会
目黒区指定有形文化財(建造物)
平成5年6月29日指定
阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱書の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。
同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。
各棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり頼度の高いものです。
また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行なわれたにもかかわらず、回祿や倒壊などによる根本的な再造営は、行なわれなかったものと考えられます。
祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして王門とともに重要なものです。
特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。
〔注)回祿とは火の神のこと。転じて火災のこと。
平成7年3月
目黒区教育委員会

五社稲荷堂

五社稲荷堂

本地身地蔵尊

本堂

本堂

梵鐘
目黒区指定有形文化財(工芸品)
平成26年9月26日指定
中目黒5-24-53
総高179.6cm、口径102.2cm。
この鐘は、享保13(1728)年に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回の追善供養のため、正室の天英院(近衛煕子)が発願し、翌享保14年に完成したものです。
鋳造は祐天寺の敷地内で行われたことが記録に残り、鋳身には何回かに分けて鋳造されていった痕跡が見られます。
鐘には祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘并記」をはじめ南無阿弥陀仏の名号および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用掛、工匠の名などが刻まれています。
また鐘の上部には徳川家の家紋の三葉葵、下部には天英院の実家である近衛家の家紋の牡丹が陽鋳されています。
徳川家と祐天寺の関係を示すだけでなく、目黒区の郷土資料として貴重です。
元文3(1738)年の27回忌追善を期に時の雛として描かれることになり、現在でも朝6時と正午前に撞かれています。
平成27年3月
目黒区教育委員会
目黒区指定有形文化財(工芸品)
平成26年9月26日指定
中目黒5-24-53
総高179.6cm、口径102.2cm。
この鐘は、享保13(1728)年に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回の追善供養のため、正室の天英院(近衛煕子)が発願し、翌享保14年に完成したものです。
鋳造は祐天寺の敷地内で行われたことが記録に残り、鋳身には何回かに分けて鋳造されていった痕跡が見られます。
鐘には祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘并記」をはじめ南無阿弥陀仏の名号および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用掛、工匠の名などが刻まれています。
また鐘の上部には徳川家の家紋の三葉葵、下部には天英院の実家である近衛家の家紋の牡丹が陽鋳されています。
徳川家と祐天寺の関係を示すだけでなく、目黒区の郷土資料として貴重です。
元文3(1738)年の27回忌追善を期に時の雛として描かれることになり、現在でも朝6時と正午前に撞かれています。
平成27年3月
目黒区教育委員会

累塚
かさね塚の由来
祐天上人は上寺第三十六代の大僧正で徳川家
五代~八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
寛文八年の頃、上人飯沼弘経寺に在位の頃、
累一族の怨霊を化益された事蹟あり。
文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、
天下の名作との巻れ高く、上人の遺恵急々高まる。
大正十五年、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、五世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、黒一族の霊を弔い、上人の威徳に浴することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に話で累一族を供養して興業の無事と、上演の盛会をならわし祈願することが慣習となっている。
以上
かさね塚の由来
祐天上人は上寺第三十六代の大僧正で徳川家
五代~八代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
寛文八年の頃、上人飯沼弘経寺に在位の頃、
累一族の怨霊を化益された事蹟あり。
文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、
天下の名作との巻れ高く、上人の遺恵急々高まる。
大正十五年、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、五世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、黒一族の霊を弔い、上人の威徳に浴することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に話で累一族を供養して興業の無事と、上演の盛会をならわし祈願することが慣習となっている。
以上

すてき
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ちよは105投稿
みなさんの投稿いつも楽しみにしており参拝記録や写真に癒されております 普段なんとなく通り過ぎていた神社やお寺 このアプリを入れてから身近にたくさんの社があることを知りました 通勤時や仕事の...もっと読む
ホトカミ見ました! で広がるご縁
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住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。





