おなづかじんじゃ
女塚神社のお参りの記録一覧
蒲田八幡宮兼務社巡り② 蒲田駅付近にあった八幡社が鉄道敷設のため統治に遷座。女塚古墳があるため、社名を女塚神社と改称したものです。当初は旧女塚村と御園村の鎮守社でしたが、遷座の際に女塚村のみの鎮守社となっています。女塚古墳埋葬者には地元の長者の娘説、旅の途中で殺害された女性説、新田義興の侍女の少将局説があります。境内に駐車できそうなスペースがありますが、柵があり侵入できません。近くのコインパーキングに停めての参拝。停めた場所を覚えていないと細かい道が沢山ありますので戻れなくなってしまいそうです。新田義興は矢口の新田神社に祀られています。又、少将局は竹沢左京亮が新田義興の歓心を買うために京都から迎えられた若い上臈(高級女官)で、竹沢が新田義興の暗殺を企てていることを察知し、義興に文を送って奸計を防止しようとした。その為、竹沢に殺害され、遺体は捨て置かれたが、これを哀れんだ村人たちが少将局を葬ったのが女塚。更に少将局には七人の侍女があり、彼女らも運命をともにしたともいう。その生首が川に流されて女塚の里に流れ着いたので、里人が憐れんで流れ着いた地点に埋めて塚を築いた。その数が七つだったので女七塚と呼び、後の女塚は女七塚の訛ったものだという伝承が残っています。
鳥居
手水舎
手水鉢
狛犬
拝殿
本殿
境内社鳥居
境内社
眷属の狐
境内社 女塚稲荷神社
女塚古墳由緒碑
境内社鳥居
境内社
蒲田八幡神社兼務六社巡拝^^
東京は大田区の蒲田周辺に所在する神社のお参り旅^^
本日は蒲田駅近くにある手芸用品専門店に材料買い出しの為に参上^^
少々早めに出発 開店前の時間を利用して 蒲田八幡兼務社巡り^^
ココ蒲田はその昔、毎日のように行き来していた地で馴染みのある地
駅周辺の賑やかな商業地と住宅地が混在する町
そんな中に点在する神社の訪問記^^
まずは 女塚神社よりスタート^^
静かな住宅地の一画にある神社
まだまだ冷え込み厳しい9時台のお伺い^^
朝のひんやりとした空気の中、気持ちよくお参りしてきました^^
続いて 向かうは 御園神社へ^^
鳥居
境内風景^^
社殿
手水舎
境内社
境内社
御朱印
蒲田八幡➡️稗田神社➡️椿神社➡️北野神社➡️御園神社➡️女塚神社🚶♂️ゆっくり巡って約2時間ほどでした。御朱印は蒲田八幡神社でまとめていただけます。
●女塚の由来
伝承 には三つの説がある。ひとつはこの地の長者の娘を葬った。ふたつ目は、旅の婦人が害され殺されたのを哀れんで葬った。みっつ目は、神社由緒にあるように新田義興の侍女少将局を祀ったと言うものである、いずれも伝説の域を出ない
↑●昭和42年(1909)まで女塚町と呼ばれた。現住所は西蒲田1、3~7丁目、池上5丁目あたりである。
新田義興を色仕掛けにするため、足利方武将・竹沢右京亮が送り込んだ「御所の少将」が裏切ったため殺された、これを哀れみ塚を造り祀った。
現在地は明治5年(1872)に移転してきた、元の場所は東海道筋(蒲田駅東口)にあった。創建年代は不明である、宇佐八幡を慶長19年(1614)に勧請したと言う説と、元和元年(1615)に設立したという説がある。
蒲田六社巡りの最初として初めてお参りさせていただきました。
鳥居からの本殿です
手水舎です
本殿です
御朱印は蒲田八幡神社で拝受できます
蒲田八幡神社で拝受した御朱印です
新田義興の侍女である少将局の墳墓があると伝わる場所に、明治中期、女塚村鎮守として神社を遷座することになりできたのがはじまり。
新田義興とは南北朝時代の武将で、敵方の竹沢が義興を懐柔するために送り込んだのが少将局でした。
竹沢側にありながらも少将局は次第に義興に惹かれてしまい、竹沢が攻めてくるという情報を義興に漏らしてしまいます。
おかげで義興は助かりましたが、作戦失敗の原因に気付いた竹沢に少将局は殺されてしまいました。
少将局の亡骸は打ち捨てられたままとなっており、村の人が憐れんで弔ったのが女塚の始まりだそうです。
また、少将局には七人の侍女があり、彼女らも運命をともにしたという説もあります。
古墳と言われている場所は木が生い茂り、周りと比べて少し暗い印象を受けました。ですが、その分木漏れ日がキラキラと美しかったです。
尚、女塚神社は蒲田八幡神社の兼務社となっており、御朱印は蒲田八幡神社でいただけます。
鳥居
境内
手水舎
拝殿
拝殿
境内社
女塚稲荷社と白山社
おそらくこちらが少将局の墳墓
この配置です
女塚霊神
お地蔵様の中にお地蔵様!
女塚古墳の由緒
御朱印
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