にったじんじゃ
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御朱印(1種類)
新田神社では、「新田神社」の御朱印をいただけます。
また、季節や行事に合わせたカラフルな御朱印が頒布されています。
新田大明神の御朱印
真ん中に新田大明神と書かれ、右上に新田氏の家紋である丸に一つ引き両紋と五三の桐の神紋、右に破魔矢発祥の地武蔵國矢口鎮座の印、右下に彫刻「LOVE神社」の意匠、真ん中に新田神社の印、金色の破魔矢のイラスト印、左下に宮司之印が押されています。
御祭神である新田義興公(にったよしおきこう)は足利尊氏の謀反ののち、吉野町(南朝)の恢復に尽力をされるも、謀略により多摩川の「矢口の渡」で壮烈なる最後を遂げました。
無念の死を遂げた義興公の御霊を鎮める為に、義興公の墳墓の前に社殿が建てられ『新田大明神』として広く崇め奉られました。
江戸時代の発明家平賀源内は、境内神域を越えることのない不思議な篠竹と五色の和紙を用いて魔除けの「矢守」を考案し、さらには御祭神義興公の弟の義宗公が新田の白矢に助けられ、その矢を家宝とする内容の浄瑠璃歌舞伎「神霊矢口渡」が人気を呼び、江戸庶民の間で「新田詣」が流行したといいます。
この矢守が破魔矢の元祖に当たるとされています。
新田神社境内には、浅葉克己氏より寄贈された恋愛成就を願う石の彫刻「LOVE神社」が設置されています。
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本日は近くの新田神社をお参り致しました。
駅チカで住宅街に有るのに静かな場所でした。境内には大きな樹が有りました。
御朱印は本殿横の社務所で直書きを頂きました。
日によって直書き・書置きの日が有るようなので参拝の際はご確認下さい。
直書き
社殿
歴史
清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称した。新田義興公はその七世の裔新田義貞公の第二子で、幼名を徳寿丸と申され、後醍醐天皇の御前にて元服されて従五位左兵衛佐に任ぜられた。義興公は幼少より智・勇に勝れ、殊に後醍醐天皇よりは「義貞の家を興すべき人なり」と、義興という名を賜わった。
義興公は父義貞公の遺志を継がれ新田一族を率いて吉野朝(南朝)の興復に尽力され、延元二年十二月(1337年)、北畠顕家卿と共に鎌倉を攻略、翌三年美濃国青野原に於て足利軍勢を撃破された。正平七年(1352年)には宗良親王を奉じて、弟義宗・従弟脇屋義治と共に足利尊氏・基氏を再度鎌倉に攻め、之を陥して暫く関八州に号令された。
その後、武蔵野合戦を始め各地に奮戦され、一時、鎌倉を出て越後に下り待機養兵されたが、武蔵・上野の豪族等に擁立されて再び東国に入られた。この事を聞知した足利基氏・畠山国清は大いに恐れをなし、夜討・奇襲を企てるが、常に失敗した。そこで、国清は竹沢右京亮・江戸遠江守らに命じて卑怯な計略をめぐらした。
正平十三年(1358年)十月十日、江戸・竹沢らの用意した舟で矢口の渡しを渡ろうとされたところ、舟が川の中流にさしかかると、江戸・竹沢らにいいふくめられていた渡し守は、櫓を川中に落とし、これを拾うと見せかけて川に飛び込み、あらかじめ穴を開けておいた舟底の栓を抜き逃げた。
あざむかれたと気付かれた時は、すでに遅く、舟は沈みかけ、ときの声とともに、江戸・竹沢らの軍勢に矢を射かけられ、終始一貫その忠儀を尽くされた義興公と従士十三人は矢口の渡しで壮烈なる最後を遂げられた。
その後、十月二十三日悪計加担の渡し守等は多摩川にて難船水死し、江戸遠江守は矢口にて義興公の怨霊に悩殺され狂死した。基氏入間川領内には義興公の怨念と化した雷火が落ち、竹沢・畠山も罪悪を訴える者があり基氏に攻められ諸所流浪の末死んだ。
この後も義興公の御霊が「光り物」となって矢口附近に夜々現れ、往来の人々を悩ました。そこで義興公の御霊を鎮めるために、村老等によって墳墓が築かれ社祠が建てられ、「新田大明神」として広く崇め奉られた。これが新田神社の起こりである。
江戸時代に於ては「新田大明神縁起」をもとに、蘭学者平賀源内が脚色した浄瑠璃「神霊矢口渡」が上演され、大名・武士から町人に至るまで武運長久・家運隆盛の守護神として広く崇敬を集め参詣者絶えることなく今日に至る。
明治六年一月府社に列し、同四十二年九月には特旨を以て従三位が追贈せられた。
名称 | 新田神社 |
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読み方 | にったじんじゃ |
通称 | 新田大明神 |
参拝時間 | 24時間 |
参拝料 | なし |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | あり |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 03-3758-1397 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | https://www.nittajinja.org/ |
お守り | あり |
絵馬 | あり |
SNS |
詳細情報
ご祭神 | 《主》新田義興 |
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創建時代 | 正平十三年/延文三年(1358) |
ご由緒 | 清和天皇より六代の八幡太郎義家の嫡孫源義重は上野国新田荘を領し、新田氏を称した。新田義興公はその七世の裔新田義貞公の第二子で、幼名を徳寿丸と申され、後醍醐天皇の御前にて元服されて従五位左兵衛佐に任ぜられた。義興公は幼少より智・勇に勝れ、殊に後醍醐天皇よりは「義貞の家を興すべき人なり」と、義興という名を賜わった。
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