御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
丈六寺ではいただけません
広告
丈六寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年02月28日(火)
参拝:2023年2月吉日
672年関東から来た尼僧が庵を結んだのが始まりと伝わる。
1466年阿波国・讃岐・三河の守護職・細川成之が金岡用兼を招き曹洞宗に改め中興、伽藍を整備した。
境内には細川成之を始め細川家の縁者や家臣、蜂須賀家家臣の古い墓が数多く残されている。
現在の本堂(重文)は1629年蜂須賀家政が四女・辰の供養のため方丈を再建したものである。
三門(重文)は室町時代末期の建築。
経蔵(重文)は1568年細川真之が修行僧の衆寮(座禅する室)として建立したもので、1727年改修され経蔵に改められた。
観音堂(重文)は1567年細川真之が父・持隆の17回忌に寄進したもの。
観音堂に安置されている聖観音坐像(重文)は藤原時代、平安末期の作と推定される。座高3.1mの丈六仏で丈六寺の寺名の由来となった仏様である。
左手の蓮のつぼみは悟っていない人間を表し、右手は説法印を結ぶ。このような形式の現存する聖観音丈六坐像は日本唯一であるという。
徳雲院は戦国時代に細川持隆が薬師如来を祀る持仏堂として建立したもので、現在の建物は1642年に改築されたものである。
徳雲院前の回廊の天井板はいわゆる血天井で、阿波に攻め込んだ長宗我部元親と戦った牛岐城主・新開道善を謀殺した際の血痕と言い伝えられている。
1466年阿波国・讃岐・三河の守護職・細川成之が金岡用兼を招き曹洞宗に改め中興、伽藍を整備した。
境内には細川成之を始め細川家の縁者や家臣、蜂須賀家家臣の古い墓が数多く残されている。
現在の本堂(重文)は1629年蜂須賀家政が四女・辰の供養のため方丈を再建したものである。
三門(重文)は室町時代末期の建築。
経蔵(重文)は1568年細川真之が修行僧の衆寮(座禅する室)として建立したもので、1727年改修され経蔵に改められた。
観音堂(重文)は1567年細川真之が父・持隆の17回忌に寄進したもの。
観音堂に安置されている聖観音坐像(重文)は藤原時代、平安末期の作と推定される。座高3.1mの丈六仏で丈六寺の寺名の由来となった仏様である。
左手の蓮のつぼみは悟っていない人間を表し、右手は説法印を結ぶ。このような形式の現存する聖観音丈六坐像は日本唯一であるという。
徳雲院は戦国時代に細川持隆が薬師如来を祀る持仏堂として建立したもので、現在の建物は1642年に改築されたものである。
徳雲院前の回廊の天井板はいわゆる血天井で、阿波に攻め込んだ長宗我部元親と戦った牛岐城主・新開道善を謀殺した際の血痕と言い伝えられている。
すてき
投稿者のプロフィール
タンホイザ3606投稿
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば住職さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
住職さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。