じげんじ|真言宗智山派|多宝山
慈眼寺のお参りの記録一覧
![竜王](https://minimized.hotokami.jp/W0LRHxm1Is691B1a_TqMrB-GuJms_MtvpHcNPUmSR5g/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20241013-225632_Gw0Bll747V.jpg@webp)
正式名:多宝山慈眼寺
栃木県下野市にある真言宗智山派の寺院で、関東八十八ヶ所霊場第二十番札所として遠方からの参拝者も多い。
建久7年(1196)、関東の豪族・新田義兼公により新田一族の祈願所として建立。
応永8年(1401)、長宥によって中興された。
江戸時代、将軍家が日光社参の際の昼食場所として定められ、将軍家と深い関係を持つに至る。
かつては将軍のための「御成門」「御成御殿」が設けられていたが、火災で現存せず。
![断捨離](https://minimized.hotokami.jp/OYpovAN-N-bq3fKpxeQfaa8XERbrACcNiW6yUdCr0mc/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20190905-135016_30H09ZIGto.jpg@webp)
建久七年、新田義兼公の開基により、新田一族の祈願所として建立されました。
新田家だから、寺紋は葵の紋なのか、、と思っていましたが、パンフレットによると、日光社拝の将軍家はこちらを御昼食所としてしたようです。
そんな事でこの紋なのかもしれません。
旧4号沿いにあります。
広い駐車場が道路側にあります。
大きな石の寺標と渋い山門は奥まった場所にあります。
山門の屋根に並んでいました。
山門から続く参道
千手観音堂
江戸時代の建物、船形手先ます組造り、というらしいのですが、詳しくないので、よくわかりません。が、屋根が大きくで建物がスンっとしていました
٩( ᐛ )و
朱塗りで立派です。
こいつは白い(*≧∀≦*)
本堂に向かいます
境内
綺麗な木〰!
悩ましいお姿もあります。
鐘楼堂
鐘を突く場所より下の黒い部分が迫力ある曲線を描いていてなんとも印象的でした。
別の角度からみた鐘楼堂
四国霊場お砂踏み
寺務所前
紫陽花の季節も近いです。
名前は知らない花と観音堂
紫陽花と本堂
緑多く、気持ちよいお寺でした。
御朱印には日付が入らないようです。
![Gorilla-King](https://minimized.hotokami.jp/bLdpaRmVWQExU0BJpLyKn5p-cIfFNYQQAgSDYVcbfU4/s:30:30/q:20/plain/https://hotokami-user.s3.amazonaws.com/20200904-224420_tMqNzfBXqP.jpg@webp)
関東88カ所霊場 第20番札所 慈眼寺
真言宗智山派 ご本尊十一面観世音菩薩
慈眼寺は身代り・厄除の観音様として親しまれている。建久7年(1196)、下野の豪族、新田義兼公の開基により、新田一族の祈願所として建立された。七堂伽藍を有し、東国の名刹寺院として代々新田氏の保護をうけていた。学問、修行の道場として栄えており、弘安10年(1287)、高野山の学僧、信日法師が書写した「空海御通告文」が寺宝として伝わっている。
山門を入ると三間四面朱塗りの観音堂があり、弘法大師作と伝える千手観世音菩薩が祀られている。本尊は十一面観世音菩薩で、京都の醍醐寺より請来されたものであるという。
代々将軍家からの信仰が篤く、十万石大名の待遇をうけ、堂塔伽藍の整備が行われてきたが、明治初年不慮の災害により観音堂、鐘楼堂を残して焼失。昭和52年、大本堂、書院庫裡、山門が再建された。寺宝は数多く残されている。
下野市小金井にある徳川将軍家日光社参御昼食所・関東八十八ヶ所霊場第二十番札所の慈眼寺に行ってきました。
慈眼寺の御朱印
下野慈眼寺
慈眼寺の門
慈眼寺の鐘
千手観音堂
慈眼寺本堂
栃木県のおすすめ2選🎌
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
![御朱印背景](https://minimized.hotokami.jp/--KMfP_ee4QQuLfx3VPY32TgWqDiNGmgNPxRZlldkxw/s:1000:1000/q:20/plain/https://s3-hotokami-contents.s3.amazonaws.com/img/parts/top/DSC09263.jpg@webp)
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
50
0