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むなかたじんじゃ

胸形神社の御由緒・歴史
栃木県 間々田駅

ご祭神《主》田心姫命
《配》市杵島姫命・多岐津姫命
《合》菟道稚郎子命・菅原道真
創建時代崇神天皇代(564-631年)
創始者崇神天皇
ご由緒

【神社案内板】
当社は創建古く、九州の宗像大社より当地に勧請されたものといわれ延喜式(927年制定)内の一社で格式の高い神社といわれています。祭神は田心姫命・市杵島姫命・多岐津姫命の三女神です。
当社は古くから寒川郷の総社として住民の尊崇あつく、かつては神田も多く、社殿も宏荘でしたが、中世以降は衰微しました。
風水害の被害も多く、その後再建され、弘化元年、明治14年、大正13年、昭和16年と改築修復を重ね現在に至つています。
合社されている天満宮の年初の縁日は「初天神」と称し、毎年一月の第四土曜日に華やかな祭りの行事があります。「花桶かつぎ」と称し、御輿の先導者として着飾った七オの稚児が造花で飾った花桶をかつぎ奉仕するもので、多数の見物人に囲まれて村内をねり歩きます。

【胸形神社のエノキ案内板】
胸形神社は崇神天皇の代に勅命で九州の牟奈加多(宗像)から祭神を招幣(主祭神田心姫命)後に文徳天皇の代に宗像官宜があったと言う。以前は寒川の西、巴波川の河岸にあった。
平安時代の延喜式神名帳に登載された下野十一社の一つで航海の守護と漁労豊穣の神として崇拝されていた。鎌倉時代には寒川の繁栄と共に盛況を誇った由緒ある神社である。
エノキは神社の入り口にあって神社と寒川の繁栄を示すかのように古木としての風格を備え、小山市では最も古い古木の1つであり、樹根は度重なる流失を物語っている。
胸形神社は崇神天皇の代に勅命で九州の牟奈加多(宗像)から祭神を招幣(主祭神田心姫命)後に文徳天皇の代に宗像官宜があったと言う。以前は寒川の西、巴波川の河岸にあった。
平安時代の延喜式神名帳に登載された下野十一社の一つで航海の守護と漁労豊穣の神として崇拝されていた。鎌倉時代には寒川の繁栄と共に盛況を誇った由緒ある神社である。
エノキは神社の入り口にあって神社と寒川の繁栄を示すかのように古木としての風格を備え、小山市では最も古い古木の1つであり、樹根は度重なる流失を物語っている。

歴史
歴史[編集] 崇神天皇の代(564-631)に九州の牟奈加多神社(宗像神社)の祭神を勧請し、寒川郡の総社となった。平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国寒川郡 胸形神社」と記載され、式内社に列している。中世以降は衰微したが、弘化元年(1844年)に社殿が再建される。 明治の近代社格制度では郷社に列し、明治14年(1881年)9月に本殿を改築する。明治45年(1912年)1月12日に神饌幣帛料供進社に指定される。大正12年(1922年)に拝殿が焼失するが、翌年に再建される。昭和16年(1941年)7月に水害で社殿が流失するが、翌年10月に再建される。
引用元情報胸形神社 (小山市)」『ウィキペディア日本語版』。
この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E8%83%B8%E5%BD%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE%20%28%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E5%B8%82%29&oldid=98251866

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