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2025年02月15日(土) 15時02分 byくし
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真言宗
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引地山 日向寺
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日向寺
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にっこうじ
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引地山 日向寺
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引地山日向寺観世音は、後醍醐天皇の元徳の頃に、富士泉応院の法師が、京都比叡山に学びし時に、後醍醐天皇から観音像を賜わった。 同天皇の皇子、護良親王の死を悲しんだ、親王にお仕えした南の局が泉応院より観音像をゆずり受けて祭ったのが始まりで、当時は山の西に草庵を建て根光寺といいました。 根光寺は南朝方に関係があるということで足利氏に睨まれ、誰かが本尊を沼に投げ捨ててしまいました。 正長元年に越名の漁夫の網にかかり阿武塚沼のほとりに安置されてありましたが、阿曽沼城の殿様に毎夜観音様が夢枕に立ち、西の岩山に帰りたいと告げたので、永享三年に富岡の岩山に移して引地山日向寺観音堂となりました。 天正十三年に小田原勢に攻められ防戦の時に焼失し、元和三年に再建し、その後寛政十二年十一月十五日に久保町よりの出火で再び類焼してしまった のを、南の局にゆかりのある関根弥惣清則が二十五年の歳月と私財を投じて文政七年に山の東側に東向きの五間四方のお堂を建立して、現在に至ります (由緒書より) 【別伝】 足利尊氏と対立し鎌倉に幽閉され暗殺された護良親王。 護良親王の首は役人の見張りのもとに置かれたが、家来や親しかった南の局は、その様子があまりに悲しいので、見張りがゆるむ間に、ひそかにその首を奪って逃げ出した。 首は家来の1人であった阿曾沼民部五郎の故郷、佐野へ運ぶことにした。越名沼(かつて三毳山西麓にあった広大な沼)を舟で渡って来た一行は、もう追手から逃れられないと考え、塚をつくって親王の首を葬ったと伝えられる。そのためこの地は「鐙塚」と呼ばれるようになった。 その後、首は浅沼町の八幡宮辺りに移され、首塚を作ったとも云われる。 さらに、親王の子供を身ごもっていた南の局は、鐙塚の粗末な寺で子供を産んだと云われ。その寺の本尊は、様々な所を経て引地山観音に祀られたと云われる。 上記の故事から安産・子育てにご利益があるという観音像は33年に一度御開帳される。直近の開帳年は平成20年(2008年)に行われた。
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《本尊》聖観音菩薩 《堂宇》閻魔堂 《境外堂宇》不動堂(不動明王・薬師如来・白敬天照)
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https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100010/ht050030
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護良親王の女官 南の局ゆかりの観音像を本尊とする。
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true
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引地山
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永享三年(1431年)
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阿曽沼城主
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下野三十三観音霊場 第二十七番
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33年に一度 本尊御開帳