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2024年01月24日(水) 01時26分 byくし
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明応3年(1494年)水戸80万石の領主佐竹越後安義輔御が父遠江守義定公の為水戸城内に開創したもの。開山は秀峰在岱和尚。 その後、城主但馬守の秋田改易に伴い十二世玄芳和尚が城主と訣別し開山の木像所伝の法宝等を棒持して野州間々田村に至り龍晶寺を開山、更に錫を転じて、免鳥に至り慶長18年(1613年)牧野伊予守成里師の徳風を慕いて知行内羽田に建立したのが当山である。 【エラスムス像】 観音堂に「カテキ像」というものが伝わっていた。 この木像の巻物の表面にERASMVS RETTERDAM 1598という文字が書かれていたことから、三浦按針ことウイリアム・アダムスを乗せて400年前に豊後(大分)沖に漂着したデ・リーフデ号の船尾版(トランサム)に飾られていたエラスムス像であるということが1920年に明らかになった。 徳川家の旗本で当時この辺りの領主だった牧野成里は、砲術をウイリアム・アダムスから指南された。 このときエラスムス像をもらい、長らく牧野家の裏門近くのお堂に置かれていたといわれる。 エラスムス像は重要文化財に指定され東京国立博物館の収蔵庫に保管されている。 【妖怪伝説】 この像には、夜な夜なムジナに化けて不気味な歌を歌いながらあたりを徘徊する「小豆研ぎ婆」であるという伝説が残っている。 像は鉄砲で撃たれて、腹には穴が開いており、地元の悪い子はこの小豆研ぎ婆が来てさらって行ってしまうという、親の使う脅し文句に使われていたが、寺にあった当時は、子供の遊び道具になっていた。 地元には伝説を裏付ける歌も残っている
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明応3年(1494年)水戸80万石の領主佐竹越後安義輔御が父遠江守義定公の為水戸城内に開創したもの。開山は秀峰在岱和尚。 その後、城主但馬守の秋田改易に伴い十二世玄芳和尚が城主と訣別し開山の木像所伝の法宝等を棒持して野州間々田村に至り龍晶寺を開山、更に錫を転じて、免鳥に至り慶長18年(1613年)牧野伊予守成里師の徳風を慕いて知行内羽田に建立したのが当山である。 【エラスムス像】 観音堂に「貨狄(カテキ)像」(古代中国の伝説の船の発明者)というものが伝わっていた。 この木像の巻物の表面にERASMVS RETTERDAM 1598という文字が書かれていたことから、三浦按針ことウイリアム・アダムスを乗せて400年前に豊後(大分)沖に漂着したデ・リーフデ号の船尾版(トランサム)に飾られていたエラスムス像であるということが1920年に明らかになった。 徳川家の旗本で当時この辺りの領主だった牧野成里は、砲術をウイリアム・アダムスから指南された。 このときエラスムス像をもらい、長らく牧野家の裏門近くのお堂に置かれていたといわれる。 エラスムス像は重要文化財に指定され東京国立博物館の収蔵庫に保管されている。 【妖怪伝説】 この像には、夜な夜なムジナに化けて不気味な歌を歌いながらあたりを徘徊する「小豆研ぎ婆」であるという伝説が残っている。 像は鉄砲で撃たれて、腹には穴が開いており、地元の悪い子はこの小豆研ぎ婆が来てさらって行ってしまうという、親の使う脅し文句に使われていたが、寺にあった当時は、子供の遊び道具になっていた。 地元には伝説を裏付ける歌も残っている。
編集前
《本尊》 《霊場本尊》北向観音 《諸尊》カテキ様(エラスムス)
編集後
《本尊》釈迦如来 《霊場本尊》北向観音 《諸尊》カテキ様(エラスムス)
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三浦按針ことウィリアム・アダムスや、八重洲の語源となったヤン・ヨーステンが乗ってきたオランダ船リーフデ号の船尾像であった、人文学者エラスムスの像が伝わる。