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いわさきはちまんぐう

岩崎八幡宮の編集履歴
2025年01月04日(土)
栃木県 多田駅

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くし
2025年01月04日 22時43分

ご由緒

文治元年(1185年)佐野有綱が岩崎城を築く。
文治4年(1188年)新たに佐野一族になった越前守義基(義高)が城主となって岩崎氏を称し、木曽義仲の守り本尊の応神天皇像を御神体とし、岩崎氏の氏神として奉祭し創建。
明応八年(1499年)岩崎氏移転に伴い村の神社となる。
明治四十二年(1909)稲荷神社,八坂神社を合祀。

【木曾義高伝説】
寿永3年(1184年)木曽義仲は源頼朝の追討軍によって近江の粟津で討たれた。
木曽義仲の嫡男、木曽義高(清水冠者義高)は、11歳の頃に人質として頼朝の長女 大姫の婿として出され鎌倉にいたが、義仲討死により立場が悪化する。
頼朝が義高を誅殺しようとしているのを知った大姫の手引きで義高は密かに鎌倉を脱出するが、逃亡を知った頼朝は激怒して追手を派遣し、義高は武蔵国の入間河原で捕らえられて討たれた。
しかし当地佐野には、実は入間河原で討たれたのは宇野平八という者が身代わりとなって、義高は佐野基綱を頼り落ち延びたという伝説がある。
義高は佐野基綱に匿われ、後に基綱の娘を娶り、岩崎城に住し佐野(岩崎)越前守義基と改めて佐野家に仕えたという。
晩年は山形御所ノ入に館を構え、妙法寺を建てて祖先の霊を祀ったという。 さらに承久2年(1220年)北条政子が御所ノ入の義高を密かに訪ねて逗留したとも伝えられる。
御所ノ入には義高と妻の墓と伝えられる石塔が残る。
また佐野の旧家に伝わる古文書にも「木曽ノ直伝」と書かれたものがあるという。

編集前:文治元年(1185年)佐野有綱が岩崎城を築く。
文治4年(1188年)新たに佐野一族になった越前守義基(義高)が城主となって岩崎氏を称し、木曽義仲の守り本尊の応神天皇像を御神体とし、岩崎氏の氏神として奉祭し創建。
明応八年(1499年)岩崎氏移転に伴い村の神社となる。
明治四十二年(1909)稲荷神社,八坂神社を合
祀。

【木曾義高伝説】
寿永3年(1184年)木曽義仲は源頼朝の追討軍によって近江の粟津で討たれた。
木曽義仲の嫡男、木曽義高(清水冠者義高)は、11歳の頃に人質として頼朝の長女 大姫の婿として出され鎌倉にいたが、義仲討死により立場が悪化する。
頼朝が義高を誅殺しようとしているのを知った大姫の手引きで義高は密かに鎌倉を脱出するが、逃亡を知った頼朝は激怒して追手を派遣し、義高は武蔵国の入間河原で捕らえられて討たれた。
しかし当地佐野には、実は入間河原で討たれたのは宇野平八という者が身代わりとなって、義高は佐野基綱を頼り落ち延びたという伝説がある。
義高は佐野基綱に匿われ、後に基綱の娘を娶り、岩崎城に住し佐野(岩崎)越前守義基と改めて佐野家に仕えたという。
晩年は山形御所ノ入に館を構え、妙法寺を建てて祖先の霊を祀ったという。 さらに承久2年(1220年)北条政子が御所ノ入の義高を密かに訪ねて逗留したとも伝えられる。
御所ノ入には義高と妻の墓と伝えられる石塔が残る。
また佐野の旧家に伝わる古文書にも「木曽ノ直伝」と書かれたものがあるという。

創立

不詳 文治4年(1188年)以降

編集前:不詳 文治4年(1188年以降)

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