がんじょうじ|臨済宗建長寺派|梅秀山
願成寺の編集履歴
ふりがな
がんじょうじ
ご由緒
願成寺は宝亀年間(770年)大僧都智開法印の開山で、大同年間(806年)河原の西のほとりに創建され、天台宗に属していた。
天慶年間(938年)藤原秀郷公、山本の里松の内の上に寺を建て、延寿山安入院蓮華坊とも称した。故に秀郷公開基とする。
永徳年間(1381年)となり、古天禅師中興開山となり、天台宗を臨済宗に改め、梅秀山と称した。
弘治二年(1556年)十二月二日、民家より発した火災のため諸堂炎上に遇う。
慶長六年(1601年)ようやく再興となるが、寛政七年(1795年)正月二十五日には、失火により七堂伽藍その他、古文書古記録をはじめ、いくたの得難き宝物が焼失した。 この時伽藍の薫香が三里四方に発散したという。 これは天竺伝来の釈迦尊像を焼失してしまった証左として語り継がれている。
嘉永三年(1850年)正月、本堂再建の工を起こし、翌四月二日竣工。 大正四年(1915年)二十一世義棟和尚、本堂改装。翌五年四月二十三日入仏式を修行。
昭和九年(1934年)四月二十日、建長寺派管長 菅原時保老師巡錫し、佐野源左衛門常世の六百五十年忌の大法要を修行し、現在二十四世宏道和尚に至る。
【謡曲 鉢の木】
ある大雪のふる夕暮れ、佐野の里の外れにあるあばら家に旅の僧が現れて一夜の宿を求める。
住人の武士は、貧しさゆえ接待もできぬと一旦断るが、僧を見かねて招きいれ、なけなしの粟飯を出し、自分は佐野源左衛門常世といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族の横領ですべて奪われ、このように落ちぶれたと身の上を語る。
噺のうちに囲炉裏の火が消えかかったが、継ぎ足す薪もろくに無い。 常世は手塩にかけて育てた松・梅・桜のみごとな三鉢の盆栽を出してきて折って火にくべた。
そして今はすべてを失った身の上だが、鎧と薙刀と馬だけは残してあり、鎌倉より御呼びが掛かればいち早く駆け付け、命がけでご奉公する所存であると語る。
年があけて春になり突然鎌倉から召集の触れが出た。常世は言葉通り、古鎧に身を固め痩せ馬に乗っていち早く駆けつけた。
鎌倉につくと常世は北条時頼の御前に呼び出された。 あの時の僧はお忍びで諸国視察の旅をしていた時頼だったのである。
時頼は言葉通りいち早く鎌倉に駆け付けた常世を称え、失った領地を取り戻した上に、鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土)を新たに恩賞として与えた。
ご祭神/ご本尊
《本尊》釈迦如来
《諸尊》七福神・佐野源左衛門常世の墓所
見所
謡曲「鉢の木」の佐野源左衛門常世の墓所があるお寺。
山号
梅秀山
創立
宝亀年間(770年) 天慶年間(938年)現在地に移転創建
創始者/開山・開基
(開山)大僧都智開法印 (開基)藤原秀郷 (中興開山)古天禅師