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2026年04月25日(土) 15時09分 byくし
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社伝に曰く、本社は齊明七年(661)三月十五日、紀州熊野本宮より当佐野上へ鎭座したと伝わる。 その後天長元年(824)上毛野に赤岩左近という者あり、武藏国羽生あたりの強盗と共に常に無頼を催して人民を脅し、財物を掠め、民を悩ませた。 強賊等は上野・武蔵の間に神出鬼没に出現し暴虐の限りを尽くした。 時に前従二位中納言贈正一位大政大臣 藤原長良卿これを大いに憂い、本社に祈誓をかけて賊を討伐した。大神の霊験に感じた長良卿は、一族弾正聖大弼良綱に社殿を再建させたと伝わる。 文久二年(1862)三月の出火にて本社拝殿雑舎ともに類焼するも、幣殿本社は元治元年(1864)に再建し、拝殿は明治二十七年に氏子諸氏の尽力によって再建。 ―――――――――― 【動く狛犬】 文久二年(1862)三月十八日、樹枝を折り砂を飛ばす程の激しい西風が吹き、何処からか火が燃え移り、神主阿部家を始め本社拝殿にまでみるみる燃え移ってしまった。人々には防く術もなくあれよあれよと眺めるのみ。 時に阿部氏は不在にて夫人ツヤ子のみ必死となって奴僕を指揮し、器具財物等を運び出さんと猛火の中を走り回っていた時、どこからから一匹の唐犬が現れ、常にツヤ子に寄り添って奔走し傍を離れなかった。 この時は火急のため心にも留めなかったが、鎭火の後に考えてみると、飛騨の甚五郎作の木狗が本社に納めてあり、魂のこもった名工の細工のため神を惜しませたのではないか思いつき、帰宅後に話を聞いた阿部氏さもありなんと納得し、燃えてしまったのを惜しんだと云う。
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社伝に曰く、本社は齊明七年(661)三月十五日、紀州熊野本宮より当佐野上へ鎭座したと伝わる。 その後、天長元年(824)上毛野に赤岩左近という者あり、武藏国羽生あたりの強盗と共に常に無頼を催して人民を脅し、財物を掠め、民を悩ませた。 強賊等は上野・武蔵の間に神出鬼没に出現し暴虐の限りを尽くした。 時に前従二位中納言贈正一位大政大臣 藤原長良卿これを大いに憂い、本社に祈誓をかけて賊を討伐した。大神の霊験に感じた長良卿は、一族弾正聖大弼良綱に社殿を再建させたと伝わる。 文久二年(1862)三月の出火にて本社拝殿雑舎ともに類焼するも、幣殿本社は元治元年(1864)に再建し、拝殿は明治二十七年に氏子諸氏の尽力によって再建。 ―――――――――― 【動く狛犬】 文久二年(1862)三月十八日、樹枝を折り砂を飛ばす程の激しい西風が吹き、何処からか火が燃え移り、神主阿部家を始め本社拝殿にまでみるみる燃え移ってしまった。人々には防く術もなくあれよあれよと眺めるのみ。 時に阿部氏は不在にて夫人ツヤ子のみ必死となって奴僕を指揮し、器具財物等を運び出さんと猛火の中を走り回っていた時、どこからから一匹の唐犬が現れ、常にツヤ子に寄り添って奔走し傍を離れなかった。 この時は火急のため心にも留めなかったが、鎭火の後に考えてみると、飛騨の甚五郎作の木狗が本社に納めてあり、魂のこもった名工の細工のため神を惜しませたのではないか思いつき、帰宅後に話を聞いた阿部氏さもありなんと納得し、燃えてしまったのを惜しんだと云う。 ―――――――――― ※当社から南西に約30kmほど離れた利根川北岸の群馬県邑楽郡付近には、藤原長良伝説が色濃く残っており、特にその中心部の千代田町には当社縁起に出てくる賊の頭 赤岩左近と同じ「赤岩」という地名が存在する。 (邑楽郡に伝わる伝承では、長良は盗賊ではなく大蛇を退治したと伝わっている) また千代田町は、佐野氏・藤姓足利氏などの祖となった藤原秀郷の生誕地とも伝えられており、非常に興味深い。
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齊明天皇代の創建と伝わる非常な古社。 藤原長良が上野・武蔵を荒らし回る盗賊討伐を祈願したと伝わる。 飛騨の甚五郎作の木の狛犬が、火災から逃れようとして動いたという伝説もあり。
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齊明天皇代の創建と伝わる非常な古社。 群馬県邑楽郡の利根川北岸付近に分布する藤原長良伝説の異伝が伝わる神社。 藤原長良が上野・武蔵を荒らし回る盗賊討伐を祈願したと伝わる。 飛騨の甚五郎作の木の狛犬が、火災から逃れようとして動いたという伝説もあり。
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(開基)不詳 (再建)大弼良綱
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不詳
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大弼良綱
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天長元年(824年)