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じゅとくじ|臨済宗建長寺派福田山

寿徳寺の編集履歴
2024年02月02日(金)
栃木県 富田駅

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くし
2024年02月02日 00時11分

ご由緒

壽徳寺は、山号を福田山と称し、鎌倉時代の嘉元元年(1303)に創建されました。平成25年(2003)で創建710年になります。宗派は禅宗の中の臨済宗です。本山は鎌倉の建長寺です。
壽徳寺の歴代和尚からは、近代になって2人の大本山建長寺宗務総長を輩出しています。24世有隣和尚と27世寛邦和尚の2人です。なお、25世元直和尚も建長寺の参事を勤めるほどの高僧でした。
壽徳寺は、開創当時から大伽藍を擁していたようですが、寛永15年(1638)2月に災害のために焼失し、天明時代(1780年代)に再建されました。
このような災害や火災が二度と起こらないように「鎮守と泰平」を懇願して境内に大仏が建立されました。寛政10年(1798)のことです。 大仏様は、壽徳寺の法灯を守り、人々の安泰と平和を願い、今も本堂前に鎮座しております。
しかし、再び大正5年(1916)7月に落雷のため全焼しています。
25世元直和尚の代に本堂を再建し、27世寛邦和尚の代になり、庫裏を新築し客殿を建設し、さらに平成3年(1991)には大本堂を新築し、大いに旧観を復しました。28世有節和尚の代になり、平成16年(2004)に山門を新築しました。平成17年(2005)には合祀廟を建立し、現在に至っております。

【田中正造顕徳会の由来】
足利市野田町の、渡良瀬川堤防を背にする寿徳寺に、田中正造が分骨されている事実が世に出たのは、平成元年(1989年)のこと。
前寿徳寺住職大蔵寛邦和尚が、当時の寿徳寺総代委員長室田仁氏に「本堂竣工後、墓畔に田中正造翁の顕徳碑を建てるつもりだ」と語ったことに始まる。
寛邦和尚は先代の元直和尚が言い残した事として、次のように話した。
「大正2(1913)年10月12日、惣宗寺の本葬に参加した後、室田忠七、稲村与市、稲村忠蔵、設楽常八らと熟議して、翁の分骨を寿徳寺開山禅師の墓に納めることとした。
久保田町の本源寺和尚、県町の淨徳寺和尚も参列して、証拠を残さぬよう紙位牌でこっそり埋骨式を済ませた。分骨は油紙にくるんで納めてある。 以来、9月4日には、必ず墓前で供養してきた。以後も続けるようにいわれ、だから寺だけで行ってきた」
と。分骨地は五ヶ所と信じていた者たちにとって、青天の霹靂であった。
だが、調査の過程で、分骨責任者の原田定助、政七の周辺では、七ヶ所に分骨したといわれている事実も知った。明治の男たちは黙したままで逝ってしまった。謎は一つ解け、ひとつ生まれた。
久野地区の人々は、室田仁氏、山田秀穂氏を中心に顕徳会をつくり、毎年3月第一日曜日に会合し、法要を行うこととした。1993(平成5)年には寿徳寺境内に正造翁の顕徳碑が建った。
初代顕徳会会長の室田仁氏は、正造の分骨を思いどうりに自分たちの寺に納める「離れ業」をやってのけた鉱毒被害地久野村リーダー室田忠七の孫である。

編集前:田中正造の墓所は長らく5つとされていたが、この付近の鉱毒被害者の活動家だった室田忠七という人が密かに遺骨の一部を持ち出し、このお寺だけで独自の供養を行っていたことが1989年に判明。

ご祭神/ご本尊

《本尊》釈迦牟尼仏
《露坐》大仏

編集前:釈迦牟尼仏

URL

http://www.jyutokuji.or.jp/sp/#mobile-menu

見所

田中正造の6つの分骨地の1つ。 平成元年に新たに判明した分骨地。
また、従来五ヶ所と信じられていた分骨地が、実は七ヶ所あることが明かになり新たな謎も生まれた

編集前:田中正造の6つの分骨地の1つ

創立

嘉元元年(1303年)

創始者/開山・開基

建長寺第十一世 大通禅師

行事

3月第一日曜日 田中正造春彼岸供養

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