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2025年02月20日(木) 16時41分 byくし

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ご由緒
編集前
祠跡自体の由緒や祭神は不明、藤姓足利氏の家紋である左三つ巴紋の入った手水が残る。
「青木氏」と刻まれた墓石が建っているが、青木氏は「藤原秀郷主要五氏」の筆頭で、秀郷第三子の藤原千国を祖とする一族らしい。

【赤見城の歴史】
足利俊綱(藤姓足利氏)が平安末期の治承2年(1178年)に築城するも、俊綱は木曽義仲に呼応した志田義弘に味方したために源頼朝の軍勢に攻められ落城する。
その後、木曾義仲遺児の義高とも伝えられる岩崎義基が赤見郷領主となる。
次に建久元年(1190年) 源姓足利氏一門で三河国幡豆郡戸賀崎郷を拠点にしていた戸賀崎義宗が下野国へと下向し入城。
(資料によってはこの時、戸賀崎義宗は岩崎義基配下となり赤見城主となったとするものもあるが、当時の藤姓足利氏と源姓藤原氏との関係、義基(義高)の出自などから考え難く、世代も1~2世代合わないらしい)
室町時代、古河公方と関東管領上杉氏が争った享徳の乱では、古河公方側の城として戦いの舞台となり、その後文明3年(1471年)には南 式部大輔(戸賀崎氏家臣?)が守る赤見城に上杉顕定・長尾景春らが攻め込み、式部大輔は討ち取られている。
戦国時代には戸賀崎氏の後裔が赤見氏を名乗り入っていたが、戦国大名として成長していた佐野氏と対立し、永禄二年(1559年)赤見 伊賀守の時に佐野泰綱と戦って敗れ、赤見氏は常陸の佐竹氏を頼り落ち延びる。 以後、赤見城は佐野氏の城として、対足利長尾氏への最前線となる。
佐野昌綱の代に赤見氏は許され赤見城に帰還。
佐野宗綱が討ち死にし、佐野家中は後継を巡り佐竹派と北条派に分かれ対立。北条派が優勢となり北条氏忠が養子入りし佐野家を継ぐが、赤見氏は天徳寺宝衍(佐野房綱)とともに、強硬な反北条として赤見城を拠点に抵抗。
やがて豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏は滅亡。中央に出て秀吉に仕えていた佐野房綱は佐野領を奪還する。その後、富田一白の五男 信種(信吉)を養子に迎え佐野家の家督を譲り、房綱は赤見城に隠居する。
江戸時代に入り、慶長十九年(1614)佐野信吉が改易され赤見城も廃城となった。
編集後
祠跡自体の由緒や祭神は不明。藤姓足利氏の家紋である左三つ巴紋の入った手水が残る。
同じく左三つ巴紋と「青木氏」と刻まれた墓石か供養塔も建っている。
青木氏は「藤原秀郷主要五氏」の筆頭で、秀郷第三子の藤原千国を祖とする一族らしい。

【赤見城の歴史】
足利俊綱(藤姓足利氏)が平安末期の治承2年(1178年)に築城。しかし俊綱は木曽義仲に呼応した志田義弘に味方したために源頼朝の軍勢に攻められ落城する。
その後、木曾義仲遺児の義高とも伝えられる岩崎義基が、佐野西部を与えられ赤見郷領主となる。
次に建久元年(1190年)、源姓足利氏の祖である源義康の曽孫で三河国幡豆郡戸賀崎郷を拠点としていた戸賀崎義宗が、宗族の足利庄進出に伴い下野国へと下向し赤見城を再建し入城。一説によると赤見城はこの時に義宗によって初めて築城されたとも云われる。
義宗の後は、その分流である荒川氏、次いで赤見氏と続いたとされる。 ただし戸賀崎氏および荒川氏の本貫はいずれも三河国にあり、両氏が成立するのは足利義氏が承久三年(1221)の承久の乱での軍功により三河守護に任じられてからのことであり、義宗築城説には疑問が残る。
また戸賀崎義宗は岩崎義基の家臣となり赤見城主となったとする説もあるが、これも年代がやや合わず、藤姓足利(佐野)氏と源姓足利氏との関係性、義基(義高)の出自などからも考え難い。
その後、赤見城主は荒川詮頼→荒川詮長→赤見仲村→赤見義重と続いている。このうち詮頼は、足利義詮家臣として石見守護を務めた人物である。
室町時代、古河公方 足利成氏と関東管領 上杉顕定の間で「享徳の乱」が勃発。
文明三年(1471)上杉顕定の家宰 長尾景信が、当時は古河公方の城であった赤見城を攻め落とし、城将として入っていた南式部大輔父子(成氏家臣)が討死。
永正十二年(1515)赤見六郎左衛門が城主となり佐野氏に仕え、以後は佐野氏の出城として対足利長尾氏への最前線となる。
永禄二年(1559)赤見伊賀守が佐野泰綱に反旗を翻したが城を攻め落とされ、佐竹氏を頼り常陸国へ逃亡するが、泰綱の子 昌綱の代に和睦が成立し赤見城に帰参。
昌綱の子 宗綱が討ち取られ、佐野家中は後継を巡り佐竹派と北条派に分かれ対立。北条派が優勢となり北条氏忠が養子入りし佐野家を継ぐが、赤見氏は天徳寺宝衍(佐野房綱)とともに強硬な反北条派として赤見城を拠点に抵抗。
やがて豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡。中央に出て秀吉に仕えていた佐野房綱は佐野領を奪還する。その後、富田一白の五男 信種(信吉)を養子に迎え佐野家の家督を譲り、房綱は赤見城に隠居する。
江戸時代に入り、慶長十九年(1614)佐野信吉が改易され赤見城も廃城となった。
創立
編集前
不詳
編集後
不詳 城の築城は治承2年(1178年)
創始者/開山・開基
編集前
不詳
編集後
不詳 城の築城は足利俊綱