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2025年02月20日(木) 03時27分 byくし

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祠跡自体の由緒や祭神は不明、藤姓足利氏の家紋である左三つ巴紋の入った手水が残る。
「青木氏」と刻まれた墓石が建っているが、青木氏は「藤原秀郷主要五氏」の筆頭で、秀郷第三子の藤原千国を祖とする一族らしい。

【赤見城の歴史】
足利俊綱(藤姓足利氏)が平安末期の治承2年(1178年)に築城するも、俊綱は木曽義仲に呼応した志田義弘に味方したために源頼朝の軍勢に攻められ落城する。
その後、木曾義仲遺児の義高とも伝えられる岩崎義基が赤見郷領主となる。
次に建久元年(1190年) 源姓足利氏一門で三河国幡豆郡戸賀崎郷を拠点にしていた戸賀崎義宗が下野国へと下向し入城。
(資料によってはこの時、戸賀崎義宗は岩崎義基配下となり赤見城主となったとするものもあるが、当時の藤姓足利氏と源姓藤原氏との関係、義基(義高)の出自などから考え難く、世代も1~2世代合わないらしい)
室町時代、古河公方と関東管領上杉氏が争った享徳の乱では、古河公方側の城として戦いの舞台となり、その後文明3年(1471年)には南 式部大輔(戸賀崎氏家臣?)が守る赤見城に上杉顕定・長尾景春らが攻め込み、式部大輔は討ち取られている。
戦国時代には戸賀崎氏の後裔が赤見氏を名乗り入っていたが、戦国大名として成長していた佐野氏と対立し、永禄二年(1559年)赤見 伊賀守の時に佐野泰綱と戦って敗れ、赤見氏は常陸の佐竹氏を頼り落ち延びる。 以後、赤見城は佐野氏の城として、対足利長尾氏への最前線となる。
佐野昌綱の代に赤見氏は許され赤見城に帰還。
佐野宗綱が討ち死にし、佐野家中は後継を巡り佐竹派と北条派に分かれ対立。北条派が優勢となり北条氏忠が養子入りし佐野家を継ぐが、赤見氏は天徳寺宝衍(佐野房綱)とともに、強硬な反北条として赤見城を拠点に抵抗。
やがて豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏は滅亡。中央に出て秀吉に仕えていた佐野房綱は佐野領を奪還する。その後、富田一白の五男 信種(信吉)を養子に迎え佐野家の家督を譲り、房綱は赤見城に隠居する。
江戸時代に入り、慶長十九年(1614)佐野信吉が改易され赤見城も廃城となった。
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赤見城の土塁の北西角にあった祠跡
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創始者/開山・開基
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