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2025年02月20日(木) 21時40分 byくし

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ご由緒
編集前
安元二年(1176)赤見城築城の際に用いた供物を埋めて清明塚をつくり、現大蔵町の天明宿星宮神社 七ツ塚より御分霊を勧請して創建。
文永七年(1270)瓜棚に遷座。元禄元年(1688)元の清明塚に戻る。
しかし平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で塚ごと倒壊。
塚は低くなってしまったが、社殿は近年再建されたようである。
なお、400年間遷座されていたという「瓜棚」については不明だが、赤見城跡を挟んだ北西およそ1.5kmの国道293号沿いに「清明塚皇大神宮」という小塚と石祠神社があり、そこだった可能性がある。
編集後
安元二年(1176)赤見城築城の際に用いた供物を埋めて清明塚をつくり、現大蔵町の天明宿星宮神社 七ツ塚より御分霊を勧請して創建。
文永七年(1270)瓜棚に遷座。元禄元年(1688)元の清明塚に戻る。
しかし平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で塚ごと倒壊。
塚は低くなってしまったが、社殿は近年再建されたようである。
なお、400年間遷座されていたという「瓜棚」については不明だが、赤見城跡を挟んだ北西およそ1.5kmの国道293号沿いに「清明塚皇大神宮」という小塚と石祠神社があり、そこだった可能性がある。
【別伝 十三法塚】
この塚は、十三法塚という由緒ある塚で寿永・文治 (1183〜1186) の戦いで亡くなった者が葬られた。
そのころ赤見は佐野に属し、藤原秀郷公の子孫である足利秀綱の領地であった。
治承四年 (1180) 8月、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると源氏の一族は皆従った。だが、頼朝の叔父志田先生義広は、頼朝を討って源氏の頭領たらんとして、俊綱とその子忠綱らを味方に引き入れ、鎌倉に向かわんとしたが、小山朝政の計略によって野木宮で敗れた。
俊綱は赤見に退いたが、家臣の桐生六郎によって討たれた。寿永二年 (1183) のことであった。忠綱は上野に隠れ住み時節を待ったが、足利義兼に追われ入飛駒で討ち死にした。
文治二年 (1186) 6月、俊綱の弟有綱と足利義兼とが赤見山で戦った。有綱は目を射られ戸室まで落ちて自害した。
赤見を中心にして行われた二度の戦いで、多くの人が死んだ。何が公闘で何が死闘なのか、土地の人々にとってはそれはどうでもよいことであった。敵味方の区別なく手厚く葬った。それがこの十三法塚なのである。