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ほうおんじ|臨済宗建長寺派妙光山

報恩寺の編集履歴
2024年01月24日(水)
栃木県 田沼駅

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くし
2024年01月24日 04時11分

ご由緒

勧請開山 栄西 元久元年(1204)
木曽義仲の子、清水冠者義高が落ち延びて佐野家に仕え、名を佐野(岩崎)越前守義基と改め、父祖の霊を弔う為に寺を建て、栄西を招請して開山とし、如法寺と称したといわれています。
21世三伯玄伊和尚の代に、妙光山報恩寺と改めました。
住職は代々鎌倉建長寺の隠居が務めていたといわれており、格式のある寺でした。
天正19年(1591)に天徳寺了伯が、母(赤見丹波守義政の娘)の菩提を弔うため自ら大願主となって中興しました。この時の住職が福源山古溪籐和尚であり、徳川幕府から19石7斗の朱印地をいただいており、末寺8ヵ寺を持つ大きな寺院でありました。
寛政年間(1789~1801)までは、広い境内に堂塔が林立していたといわれますが、その後、寛政・嘉永年間2度の火災に遭って焼失し、その後再建された桃山式建築の本堂も平成6年に不慮の火災で焼失しています。 現在の本堂は平成10年に再建されたものです。

編集前:勧請開山 栄西 元久元年(1204)
木曽義仲の子、清水冠者義高が落ち延びて佐野家に仕え、名を佐野(岩崎)越前守義基と改め、
父祖の霊を弔う為に寺を建て、栄西を招請して開山とし、如法寺と称したといわれています。
21世三伯玄伊和尚の代に、妙光山報恩寺と改めました。
住職は代々鎌倉建長寺の隠居が務めていたといわれており、格式のある寺でした。
天正19年(1591)に天徳寺了伯が、母(赤見丹波守義政の娘)の菩提を弔うため自ら大願主と
なって中興しました。この時の住職が福源山古溪籐和尚であり、徳川幕府から19石7斗の朱印地を
いただいており、末寺8ヵ寺を持つ大きな寺院でありました。

寛政年間(1789~1801)までは、広い境内に堂塔が林立していたといわれますが、その後
寛政・嘉永年間2度の火災に遭って焼失し、その後再建された桃山式建築の本堂も
平成6年に不慮の火災で焼失しています。現在の本堂は平成10年に再建されたものです。

御朱印

あり

創立

元久元年(1204年)

編集前:元久元年(1204)

創始者/開山・開基

《開基》佐野義基 《開山》栄西

編集前:佐野義基

行事

毎月第一日曜日朝7時~ 座禅会
毎月第三日曜日夜7時~ 座禅会

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