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2026年05月12日(火) 06時07分 byくし
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応安元年(1368)九月創建。 南朝正平十三年・北朝延文三年(1358年)四月、尊氏薨去の後、その木坐像および靈牌を安置すという。靈牌には「等持院殿贈大相國一品仁山義公大禅定門」とあり。現在の坐像は後代の作。 当時、鎌倉圓覺寺の直末となり宿坊を續燈院という。以後二百数十年、代々頭堂職を賜わり圓覺寺の末寺となる。 文禄5年・慶長元年(1596年)勧農(現在の岩井町)より当地に移転。これに先立つ1562年と1565年に渡良瀬川で大きな氾濫が起き、それまでは足利南部の下野・上野国境を流れていた渡良瀬川が大きく流路を変え、勧農の地を横切るようになったためと思われる。 慶長五年(1600年)、徳川家康が関ヶ原合戦の前、北からの上杉景勝の進出防止のため結城秀勝が小山に対陣した際、当山第十世 丘甫和尚が陣中に召され、吉凶勝敗を占ったところ吉卦を得て大勝したため、秀康の崇敬を受け種々の下賜品を賜わう。 天保二年(1832年)正月、足利学校と共に火災にあき、殿堂什器等の多くが灰燼に帰すが再建。 明治維新前には、寺内に常照庵・實島庵の二寺があったが合併。 岩井本城(勧農城)に地蔵堂があり「乳房地蔵尊」が祀られている。その由緒不詳なるも、当時が勧農にあった時の堂宇ではないかと云われている。 (乳房地蔵については岩井町の赤城神社に併せて登録してありますのでご参照ください)
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応安元年(1368)九月創建。 南朝正平十三年・北朝延文三年(1358年)四月、尊氏薨去の後、その木坐像および靈牌を安置すという。靈牌には「等持院殿贈大相國一品仁山義公大禅定門」とあり。現在の坐像は後代の作。 当時、鎌倉圓覺寺の直末となり宿坊を續燈院という。以後二百数十年、代々頭堂職を賜わり圓覺寺の末寺となる。 文禄5年・慶長元年(1596年)勧農(現在の岩井町)より当地に移転。これに先立つ1562年と1565年に渡良瀬川で大きな氾濫が起き、それまでは足利南部の下野・上野国境を流れていた渡良瀬川が大きく流路を変え、勧農の地を横切るようになったためと思われる。 慶長五年(1600年)、徳川家康が関ヶ原合戦の前、北からの上杉景勝の進出防止のため結城秀勝が小山に対陣した際、当山第十世 丘甫和尚が陣中に召され、吉凶勝敗を占ったところ吉卦を得て大勝したため、秀康の崇敬を受け種々の下賜品を賜わう。 天保二年(1832年)正月、足利学校と共に火災にあき、殿堂什器等の多くが灰燼に帰すが再建。 明治維新前には、寺内に常照庵・實島庵の二寺があったが合併。 岩井本城(勧農城)に地蔵堂があり「乳房地蔵尊」が祀られている。その由緒不詳なるも、当時が勧農にあった時の堂宇ではないかと云われている。 ―――――――――― ※乳房地蔵尊については当寺から南東におよそ2km、渡良瀬川の河川敷内にある岩井山(勧農城跡)にあります。 乳房地蔵尊の資料によると、勧農にあった時の善徳寺は「千年寺」と号する寺院だったとのこと。
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足利尊氏開基と伝わるお寺。
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足利尊氏開基と伝わるお寺 前身は岩井山(勧農城跡)にあった千年寺