さかふじてんまんぐう
逆藤天満宮の編集履歴
ご由緒
この社は、足利家守護として古くから崇敬されていたものです。
祭神は菅原道真公で学問の神として人々の厚い信仰を集めております。
建久七年(一一九六)に足利又太郎忠綱が思いもよらない嫌疑をきせられ無実の罪がはれるよう祈願のおり、天満宮の社前に逆さに刺したまま置き忘れた鞭代りの藤の枝が芽をふき大木になった事から「逆さ藤天神」と呼ばれるようになりました。
足利忠綱は武勇の士で十七歳の時に平清盛から戦功を認められ上総介に任ぜられました。(神社案内板より)
【鑁阿寺に伝わる伝承】
建久7年(1196年)、鑁阿寺に屋敷を構える足利義兼が鎌倉へ滞在中、足利忠綱が鑁阿寺で留守を預かっていたが、足利義兼の妻・北条時子が妊娠したように腹部がふくれてしまった。
北条時子の侍女の藤野が、足利忠綱が不義密通を行ったに違いないと足利義兼に伝え、足利忠綱に追手がかってしまう。足利忠綱には身に覚えのない事だったが、藤野は足利忠綱に振られた腹いせに虚偽の報告を行ったという。(伝承には幾つか変種や相違がある)
その後、北条時子は身の潔白を証明するために自害し、藤野は牛裂きになったと伝えられている。
足利忠綱は鑁阿寺を抜け出す際、天満宮に無実が晴れるようにと祈願を行った後、鞍もついてない馬に乗り逃亡したといい、祈願の時に鞭代わりの藤の枝を地面に差したまま忘れていった。
するとその藤の枝は芽吹き、立派な大木となったことから、今でもその天満宮は逆さ藤天神と呼ばれている。
編集前:この社は、足利家守護として古くから崇敬されていたものです。
祭神は菅原道真公で学問の神として人々の厚い信仰を集めております。
建久七年(一一九六)に足利又太郎忠綱が思いもよらない嫌疑をきせられ無実の罪がはれるよう祈願のおり、天満宮の社前に逆さに刺したまま置き忘れた鞭代りの藤の枝が芽をふき大木になった事から「逆さ藤天神」と呼ばれるようになりました。
足利忠綱は武勇の士で十七歳の時に平清盛から戦功を認められ上総介に任ぜられました。